京都を発展させた人工の水路“琵琶湖疏水” 暗渠道から歴史を紐解く旅
全国の道に特化したバラエティ番組『道との遭遇』では、道マニアがイチオシの道をご紹介。今回は京都府にある、川が流れていた場所の上にできた“暗渠道(あんきょみち)”を巡りながら、“琵琶湖疏水”の歴史を紐解きました。(この記事では道情報だけをまとめてご紹介します)
京都を発展させた人工の水路“琵琶湖疏水”とは
かつて平安京として日本の首都に定められ、政治・文化の中心地として栄えた京都。その繁栄の理由の1つと言われるのが、大きな川の存在です。鴨川や桂川に挟まれた平安京は水路の要衝となり、多くの人や物資が出入りすることで商業・工業の都市として発展したと言われています。
しかし、東京に首都が移り、人口が減少。産業は衰退し、さらに水不足にも悩まされていました。「そんな京都の一発大逆転の施策が、“琵琶湖疏水(そすい)”」と道マニア。
滋賀県大津市と京都を繋ぐ人工の水路“琵琶湖疏水”は明治14年、琵琶湖から水を引き入れるため北垣国道(きたがきくにみち)京都府知事によって計画されました。
工事には京都府予算2年分、現在価値で約1兆円を費やし、作業員約400万人、約5年に及ぶ難工事の末、明治23年に完成。
第1疏水、第2疏水、疏水分線などから成る“琵琶湖疏水”は、季節や年によって水量が不安定だった京都に、琵琶湖から安定した水の供給に成功。中でも人々の暮らしを変えたのが、当時の最先端技術であった水力発電。また、工場の機械化が進み、日本初の路面電車も運用されるなど京都の街を大きく発展させました。
さらに、電力を利用してケーブルカーのように走らせる鉄道「インクライン」も誕生。高低差のある斜面を台車に乗って移動できる画期的な輸送手段で、人々の生活文化の向上に大いに貢献したと言われています。
琵琶湖の水が流れる水路橋「水路閣」 開渠から暗渠へと変わる「白川疏水通り」
今も1日約200万トンもの水が運ばれている“琵琶湖疏水”。京都市左京区の「南禅寺(なんぜんじ)」の境内には、“琵琶湖疏水”を知る上で欠かせない重要な場所があります。それが、明治21年竣工の水路橋「水路閣」。美しいアーチが目を引き、上部の水路を流れていく琵琶湖からの水を見ることができます。
また、京都御所の北に位置する「白川疏水通り」には、水路が開渠から暗渠へと変わる場所が存在。その暗渠道はさらに西へと続き、サイホン式で賀茂川(かもがわ)の下をくぐり抜け、反対側へと続いています。
“琵琶湖疏水”は、設計の段階から日本人だけのチームで成し得た大きな土木工事。隧道建設の際に地表から竪穴を掘り、地中から横に掘り進んでいく「竪坑(たてこう)方式」や、薬品による化学変化で汚れや細菌を除去し、効率的に水をきれいにする「急速ろ過方式」など、日本初の試みを多く取り入れ京都を発展させたと言われています。
かつては豊臣秀吉も疏水の計画を立てたことがあり、硬い岩盤に阻まれて工事を中止したという記録が残っているそうです。
7月9日(火)午後11時56分放送 CBCテレビ「道との遭遇」より