急逝木下雄がハマの夜空に降らせた涙雨 侍・井端コーチが今だから明かす“ドラ大野雄起用法”秘話
【ドラゴンズを愛して半世紀!竹内茂喜の『野球のドテ煮』】CBCテレビ「サンデードラゴンズ」(毎週日曜日12時54分から東海エリアで生放送)
稲葉監督の恩義に報いるために
ドラゴンズファンのみならず、日本のプロ野球ファンの総意、悲願であったオリンピック金メダル。公開競技だった1984年ロサンゼルスオリンピックで頂点を極めたものの、以降、正式競技となった5大会では届きそうでどうしても手中にできなかった黄金に輝くメダル。それを24人の侍たちは見事に、それも無敗という最高の結果で栄冠を勝ち取ったのである。
金メダルが決まった瞬間、マウンド上に集まり、歓喜する選手たち。その中にドラゴンズのエース、大野雄大投手の喜ぶ姿があった。
ここ数年、東京オリンピック出場へ向け、並々ならぬ決意でボールを投げ続けてきた大野投手。今季なかなか成績が上がらなかったものの、“彼の力は必要”と、評価を変えなかった稲葉監督。その思いに報おうとばかり、大野投手はこのチームのためなら、なんでもやれることをやる!と心に決めた。
結果でいえば、彼の登板は準々決勝のアメリカ戦のみ。1点ビハインドの9回に登板し、無失点に抑える好リリーフ。サヨナラ勝ちへとつなげる良い流れを作る働きを見せたものの、ドラゴンズファンとすればなんとも物足りなかったに違いない。
そんな大野登板についてこの日、番組に電話生出演した井端内野守備・走塁コーチが今だからこそともいえるチーム内の秘話を明かした。
『彼が一番大変だったと思いますよ。勝ち上がっていく中、彼の先発は一度もなかったのですが、負けた次の試合は全部大野投手の予定だったので、勝っていてリリーフでも投げなくてはいけないけれど、負けたら次の試合もなげなくてはならないという、彼の精神状態というのはボクが思う中では一番キツかったんじゃなかったのかなと思います』
“他の投手がしんどい思いをするならば、オレがすべてやる”
まさに稲葉監督への恩義に報いる働きを実践した大野投手。約束を果たし、表彰台に上がった彼は達成感に満ち溢れた優しい顔に戻っていた。メダルの授与で栗原選手(ホークス)から首にかけてもらった大野投手は、金メダルを左手に持つともうひとつの約束を果たすべく、空に向かってメダルを掲げた。急逝した木下雄介投手が見守る天国へ向けて――。
信じられない訃報
8月5日、衝撃のニュースが伝えられた。
ドラゴンズの中継ぎ右腕、木下雄介投手がこの世を去ったという信じることのできない一報だった。
先月6日の練習中に倒れ、救急搬送をされたが意識は戻らず、およそ一カ月後の今月3日、息を引き取ったという。まだ27歳という若さだったが、死因は明らかにされていない。
木下投手といえば、今年3月のオープン戦で投球後にいきなりうずくまると、そのまま降板。選手生命をも危惧される右肩脱臼で大手術を受け、それでも懸命に復帰を目指して、リハビリを行っていた。そんな中、飛び込んできた訃報だった。
振り返ると木下投手は何度も苦境に立たされながら、その度に這い上がる不屈の闘志を持った選手だった。そんな木下投手の野球人生を振り返る。
高校を卒業後、プロ野球選手を目指し、名門駒澤大学に進むも、右肘を故障し、一年で中退。その後、地元大阪に戻り、スポーツジムのインストラクターを経て、一度は不動産会社に就職した。
当時サンドラに出演した木下投手はその時の心境をこう語っている。
『(大学に入って)すぐケガをして、肘を手術して、そこからリハビリはしていたんですけど。なかなか痛みが治らなくて。それでもう野球から離れようという気持ちになりました』
しかしたまたま誘われた草野球で剛速球を連発。
“もう一度いけるかも?”と、再び野球への思いが高まり、独立リーグである四国アイランドリーグの徳島インディゴソックスの門を叩いた。
そして2016年、150キロ超えのストレートとフォークを武器に活躍すると、スカウトの目に留まり、その年のドラフト会議で育成ながらドラゴンズへの入団を果たした。すでに妻子がいる子連れルーキーだった。
不屈の精神力
“育成から這い上がって、必ず支配下入りをモノにする!”
その言葉通り、入団一年目の2017年。主に中継ぎとして22試合に登板。二軍で経験を積むと翌年2018年の春季キャンプ、オープン戦では育成選手として唯一人、一軍を完走。そして3月23日、ついに念願であった支配下登録を勝ち取った。背番号は「98」。空いている一番大きな番号から徐々に自分の実力で好きな番号、いい番号に近づいていけるようにという気持ちで選んだという。
独り暮らしの選手寮を出て、この年から家族3人で暮らせるようになったことも木下投手にとっては嬉しい出来事だった。
そしてこの年の4月15日のベイスターズ戦。8回にプロ初登板の機会は訪れた。一回を三者凡退に抑える無失点デビュー。自身の夢に向け、第一歩を踏み出した。
しかしここで再び試練は訪れる。2020年、春季キャンプ終盤に左腓骨(ひこつ)筋腱(けん)脱臼という大ケガを負い手術を受けることに。
ところがこの試練もはねのける。驚異の回復力を見せ、7月には二軍で実戦復帰すると、150キロ台のストレートが復活。9月には一軍でプロ初セーブをマーク。何度逆境に立たされても、何度でも起き上がる木下投手の“不屈の精神力”を垣間見ることができた。
2021年春季キャンプ、オープン戦では結果を残し、開幕一軍間違いなし。救援陣には必要不可欠な存在へと登り詰めていた。イーグルスとの練習試合の時にはメジャー帰りの田中将大投手にスプリットの投げ方を教わる貪欲さも見せていた。
ドラゴンズ大好き、ファンも大好き
そんな矢先、3月21日、ファイターズとのオープン戦で右肩を脱臼。開幕間近でまたしてもリハビリを余儀なくされた。しかしチームメイトは“あいつなら必ず戻ってくる”。そう信じて大野投手はバンテリンドームで投げる際、8回のマウンドに上がる時に限り、自身が使用する、あいみょんの「ハルノヒ」ではなく、木下投手のテーマソングである湘南乃風「黄金魂」を使用。チームメイトは木下投手の顔がプリントしてあるTシャツを着て、エールを送っていた。これを見た木下投手は、
『ドラゴンズ大好き。ファンの方も大好き。本当に嬉しい気持ちになりましたし、あとは絶対復帰するんだという気持ちになりました。もう前向きにとらえて、しっかり一歩一歩確実に前に進めるように、焦らず、あのマウンドに上がれるように頑張っていきたいと思います』
しかし、この言葉が番組に残る木下投手の最後の言葉となった。
この突然の訃報に監督・チームメイトは――
≪京田選手会長のコメント≫
『同期入団でもありますし、年は一つ違いますが友達のような関係で家族ぐるみでも良くして頂きました。ここでは言えないくらい、たくさんの想い出があります。未だに信じられず、気持ちの整理はついていません。ただ雄介さん、家族の想いを背負って、これから一緒に戦っていきたいと思います』
≪与田監督のコメント≫
『家族のような存在を失って、本当に悲しく残念な気持ちです。雄介の想いを大切に、みんなで力を合わせて戦っていきます』
地下鉄ナゴヤドーム前矢田駅からバンテリンドームに続く通路、通称“ドラゴンズロード”。そこに掲示されている木下投手の写真には、ファンからの偲ぶ想いを込めたメッセージが多く貼られている。彼の死を悼む声は今も絶えない。
ゲストコメンテーターでかつてのチームメイトでもあった、吉見一起さんはこの訃報を聞いた時の心境をこう述べた。
『入院したというのは聞いていました。まさかこのような形になるとは思っていなかったので、すごく残念です。育成選手として入団した当時、野球に賭ける想いは誰よりも強かった印象が残っています』
横浜の夜空に涙雨
話を冒頭に戻す。
横浜の夜空に向け、金メダルを掲げた大野投手。試合後のインタビューで、“木下投手から金メダルを獲ったら見せて下さいという約束をしていた”と、無事報告を果たしたことを明かした。メダルを天に掲げると、あたかも木下投手が呼応したかのように横浜スタジアムに、嬉し涙の雨が降り始めた。
木下雄介、私たちドラゴンズファンはずっと君の勇姿を忘れない。何があっても立ち上がる姿を絶対忘れない。これからは文字通りチームの守護神となって、天国から支えてくれると信じている。今週13日から再開されるペナントレース。彼の遺志に応えるためにも、後半戦のドラゴンズの戦いぶりを楽しみに待ちたい。
がんばれドラゴンズ!燃えよドラゴンズ!
竹内 茂喜