さようならナゴヤ球場!ドラゴンズ星野仙一監督の絶叫に涙した夜(22)

さようならナゴヤ球場!ドラゴンズ星野仙一監督の絶叫に涙した夜(22)

1996年(平成8年)は私にとって特別なシーズンだった。
このシーズン限りで、中日ドラゴンズは本拠地を、建設中のナゴヤドームに移すからである。1959年(昭和34年)に生まれてから“ご近所ファン”として幾度、この球場に通ったことか。
そして、その特別なシーズンに“燃える男”星野仙一監督がドラゴンズに帰って来た。

シーズン3人の監督が登板

伝説の「10・8決戦」の翌年、ドラゴンズは少々おかしなことになっていた。
最終戦での同率決戦という劇的な幕切れを演出した高木守道監督は、その翌年も采配をふるうことになったが、星野二次政権に向けた組閣も進んでいたため、高木現体制と星野新体制が入り混じったシーズンになったのが前年1995年だった。
チーム内が落ち着かないとなかなか勝利は得られない。6月20日には、成績不振で休養を発表した高木監督がその夜のゲームで審判に抗議したことによって退場処分となり、そのままユニホームを脱いだ。
チームを引き継いだのは徳武定祐代行監督、しかし低迷は留まらず、オールスター戦の間にこの代行監督も休養し、星野政権の参謀である島野育夫コーチが、代行の代行監督になった。
1シーズンに3人の監督に代わったことは、ドラゴンズ80年の歴史の中でもこの年だけであろう。

3年ぶりにドラゴンズのもとへ

私は海外駐在3年目を迎えていた。
高木監督の休養を知ったのは、クロアチアの首都ザグレブのホテルだった。旧ユーゴスラビア紛争を沈静化するために、日本人の国連事務総長代理・明石康さんがUNPROFOR(国際連合防護軍)を率いていたが、その活動の取材だった。
しかし、どんな取材先でも、中日ドラゴンズの動向だけはウォッチしていた。高木監督の休養とほぼ同時に加藤巳一郎オーナーも亡くなった。異国の地でファンの一人として心から哀悼の意を捧げた。
3年ぶりに日本に帰って迎えた1996年(平成8年)、星野ドラゴンズは勢いづいていた。
韓国のヘテ・タイガースから抑えの切り札として宣銅烈(ソン・ドンヨル)投手を獲得した。“韓国の至宝”と呼ばれていた投手で、星野監督が現役時代に自らもつけたドラゴンズのエース背番号「20」を与えたことからも、その期待の大きさがうかがえる。
しかし初年度の宣投手は、日韓の違いに戸惑ったのか、登録抹消される時期もあるなど苦しい状況が続いていた。しかし、大豊泰昭選手や山崎武司選手を中心とする打撃陣が活躍し、5月には首位に立つなど、我々ファンを喜ばせた。
5月は大豊選手が、6月は山崎選手が、それぞれ月間MVPを獲得したことからも、その勢いは証明された。
勢いの象徴は、野口茂樹投手のノーヒットノーランだろう。8月11日、東京ドームで左腕の野口投手はジャイアンツ相手に大記録を達成した。

「10・8」決戦の再来

しかし、優勝には一歩届かなかった。この年は、ナゴヤ球場の最後の年だった。新しい本拠地はナゴヤドームに決まっていた。
かつて中日球場時代から、“ご近所”として共に生きてきた自分にとっては、感慨深い年となった。そして、その感慨を感動に変えるシナリオが進んでいた。またも、ナゴヤ球場での優勝のかかった一戦である。
10月6日の日曜日、ナゴヤ球場の最終戦。相手は首位を走る読売ジャイアンツ。
このゲームを含めて、ドラゴンズが残り3試合を全勝すれば、ジャイアンツと同率のプレーオフにもつれ込む・・・まさに、2年前「10・8」の再来だった。

選挙取材後にナゴヤ球場へ

その秋は選挙の秋だった。橋本龍太郎内閣による衆議院の解散総選挙が、10月8日公示、20日投開票という日程で進んでいた。それまでの中選挙区制から変わって「小選挙区比例代表並列制」という新しい選挙制度での最初の選挙だった。
公示2日前の日曜日となれば、各候補予定者による集会も佳境を迎えている。私は名古屋市内の選挙区すべてを担当しており、その集会を次々とはしごして取材に回っていた。しかし、取材が終わった時、車のラジオから流れてきたナイター中継を聴いてみると、ゲームは負けそうだが、試合はまだ終わっていないではないか。居ても立ってもいられない。ナゴヤ球場へ駆けつけた。
ゲームは残念ながら負け。しかし、星野監督以下全選手によるセレモニーには間に合った。
「さようなら、ナゴヤ球場。最高の球場だと思っております」
この星野監督のひと言に思い切り拍手をした。新しいドーム球場は魅力にあふれるが、
幼き頃から通い続けたナゴヤ球場への思いは格別だった。
秋風の中、ナゴヤ球場は最後の輝きを熱く放っていた。

お宝グッズの照明塔電球

ナゴヤ球場は、現在はすぐ横に合宿所や屋内練習場が作られるなど、“ドラゴンズタウン”として生まれ変わった。そのナゴヤ球場ゆかりの品を私は所有している。
本拠地がナゴヤドームに移った後の1998年に、ナゴヤ球場の照明塔が撤去されることになった。ニュースの取材に行く後輩記者に、
「もし廃棄されるのなら1個もらってきて」
と頼んだのが、照明塔の電球である。
ナゴヤ球場には8つの照明塔が立っており、数えてみると一塔あたり120個の電球が付いていた。電球の数はざっと960個。
取材チームはリクエスト通り、その内1個の電球を持ち帰ってくれた。予想通り、廃棄処分になる運命だったと言う。
しかし、これはただの電球ではない。1954年(昭和29年)の天知監督の日本一、1974年(昭和49年)の与那嶺監督による20年ぶりのセリーグ優勝、そして私はいなかったが1994年(平成6年)のジャイアンツと優勝をかけた「10・8」決戦など、ドラゴンズの数々の歴史を見守ってきた電球なのである。残る959個の電球はすべて処分されたようだ。

近藤貞雄さんが電球にサイン

直径1メートル近くある巨大な電球を目の前にして感動に打ち震える私に、報道部の先輩が、一日会社に置いておけと言う。翌日の日曜日にドラゴンズ番組があるので、せっかくだから誰かゆかりの人のサインを頼んでみるとのこと。
そして翌日、その電球には、番組ゲストだったOBで解説者の近藤貞雄さん(故人)のサインが入ったのだった。
近藤さんは電球のガラス部分に豪快に「野武士野球で半世期」と書いて下さった。「半世紀」が「半世期」と漢字が間違っているのはご愛嬌か。
この電球は2006年に名古屋の松坂屋本店で開催された「ドラゴンズ70年の軌跡展」で一般ファンから思い出の品の募集があり、採用されて会場に展示された。
電球を保管しようという酔狂な人間は私以外にはいなかったようで、世の中で唯一の「ナゴヤ球場照明塔の電球」だった。
ガラスケースに入れられた電球を見ながら、愛すべきドラゴンズのお役に立つことができて、ファン冥利につきる思いだった。(1996・1998・2006年)

【CBCテレビ論説室長・北辻利寿】

※ドラゴンズファンの立場で半世紀の球団史を書いた本『愛しのドラゴンズ!ファンとして歩んだ半世紀』(ゆいぽおと刊・2016年)を加筆修正して掲載いたします。

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