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ナゴヤ球場に駆けつけたい!異国で切歯扼腕ドラゴンズ「10・8決戦」(21)

ナゴヤ球場に駆けつけたい!異国で切歯扼腕ドラゴンズ「10・8決戦」(21)

スイスのジュネーブにあるアメリカ合衆国代表部の前。一体自分はここで何をしているのか? その日、私は真剣に自問自答していた。
1994年(平成6年)10月8日。時差8時間の日本、名古屋では、中日ドラゴンズと読売ジャイアンツの最終戦が始まろうとしていた。勝率はまったく同じ。実に簡単で、“勝った方が優勝”なのである。伝説の「10・8決戦」当日のことだった。

ドラゴンズと離れた海外生活

1992年9月から、私はTBSをキー局とするJNN系列の特派員として、オーストリアのウィーンに駐在した。任期は3年間だった。
修学旅行の3泊4日の間、実況中継が聴けないことが我慢できずトランジスタラジオを買った高校時代。バックパッキング旅行で国際電話ができる状況になりパリからの電話で真っ先にドラゴンズの成績を尋ねた大学時代。そんな自分が、愛しきドラゴンズから3年間も離れるなんて・・・。
インターネットは電話の受話器とパソコンからの受話器をベルトで固く結び合いアクセスしていた時代。リアルタイム実況なんて夢の夢だった。

異国で読む中日スポーツ

特派員時代に実家の親に頼んだことは、月に1度、1か月分の中日スポーツをまとめてウィーンに送ってもらうことだった。とはいえ、そのまま送ったのでは重くなり、郵送料金が高くなる。読みたいのはドラゴンズのことが取り上げられる1面から4面だったが、放送局につとめる者としては芸能ニュースも読みたかったので、「外側の2枚をそのまま送って」というリクエストをした。
おかげでヨーロッパにいながらも、ドラゴンズの情報だけは漏れなく入手し続けていた。1ヶ月遅れではあったが・・・。異国の地で、スミからスミまでドラゴンズの記事を読みまくった。

高木ドラゴンズの誕生

海外に赴任した時、ドラゴンズの監督は高木守道さんだった。
読売ジャイアンツの10連覇を阻止しての1974年(昭和49年)セ・リーグ優勝の立役者、満を持しての登場だった。
1年目の1992年は最下位。12年ぶりのことだった。その前の最下位監督は中利夫さん。私がドラゴンズを応援し始めた頃、大活躍だった中・高木の1、2番コンビが、監督として揃って最下位を記録したことになる。高校時代、ジャイアンツファンの同級生から「弱虫ドベゴンズ」と言われ、悔しい思いをしたことを思い出した。
しかし翌年の1993年(平成5年)は一気に浮上して2位だった。

落合選手は宿敵にFA移籍

シーズンオフに落合博満選手が、日本人初のFA宣言をして、あろうことかジャイアンツに移籍した。海外で知るこの移籍ニュースは、ドラゴンズファンとしては本当にショックだった。
もうひとつ気になっていたことがある。それは、「名球会」という団体について思うところがあったのか、落合選手がかねてから「オレはヒット1999本打ったら引退する」と言い続けていたことだ。名球会入りの資格は、打者ならば「2000安打」。だからこその発言だった。
しかし、実は名球会は本人が希望しなければ入会しなくてもよかった。ジャイアンツへ移籍した落合選手は、1995年4月5日の阪神タイガース戦で2000安打をホームランで達成した。500本安打、1000本安打、1500安打、節目の安打は、すべてホームランで飾っている。やはり凄い打者である。ジャイアンツのユニフォームさえ着ていなければ、心から拍手喝采だったのだが、そこは竜党としては複雑だった。宿敵ジャイアンツにはどうしてもこだわってしまう。そして落合選手は名球会には入会しなかった。

長嶋ジャイアンツに待った!

さて、1994年である。この年は長嶋巨人が独走。7月に時点でドラゴンズは首位のジャイアンツと10.5ゲーム差だった。
8月18日の巨人戦に敗れ、巨人にマジック25が点灯、そこから8連敗して4位に転落した。ウィーンにも「高木監督交代、星野仙一氏が再登板か」との情報が届く。
しかし、その年の竜はそれまでの竜とは違った。9月8日のヤクルト戦からなんと破竹の9連勝を記録したのだった。

米朝交渉の取材でジュネーブへ

そんな秋、私はウィーンからスイスのジュネーブに出張していた。
北朝鮮の核開発疑惑をめぐる米朝交渉の取材である。9月22日にジュネーブ入りした。ジュネーブはレマン湖畔にある国際都市である。かつて大学時代のバックパッキング旅行でも立ち寄った町。秋とは言え、日差しはまだ十分に夏だった。名物の大噴水の横、モンブラン大橋を行きかう人々の服装はバカンスモードのカラフルさに飾られていて、仕事でなければ本当に楽しい旅だと思った。
取材内容は国際的にも実に深刻なテーマだった。北朝鮮が1985年から加盟していたNPT(核拡散防止条約)を脱退、寧辺(ヨンビョン)という町での核開発疑惑が持ち上がり、ウィーンに本部があるIAEA(国際原子力機関)が、北朝鮮の施設を査察すべしと訴えていた。
そんな中、アメリカと北朝鮮の外交での対話がスタートした。いつ結論が出るともわからないこの交渉をマークすることが、今回のミッションだった。
アメリカの代表は、ロバート・ガルーチ国務次官補、北朝鮮は姜錫柱(カン・ソクチュ)外務次官。この2人を筆頭に、連日交渉が行われるのだが、会場はアメリカ合衆国の代表部とレマン湖畔の北朝鮮大使館で一日置きに変わった。当然、我々は一日置きに交渉会場を行き来しながら、片方の代表団の出入りを撮影し、可能なら“ぶら下がり”と言われる囲み取材を行う日々に突入した。

ドラゴンズ破竹の快進撃

ウィーンからジュネーブ入りする頃は、ジャイアンツの独走態勢だったため、心穏やかに取材に専念しようと思っていたが、米朝交渉が佳境に入る頃、何やらドラゴンズがよく勝ち始めたのだ。少しでもドラゴンズの情報を入手するため、ジュネーブの街角で売っている日本経済新聞の衛星版を購入し始めた。
9連勝の後もドラゴンズの勢いは止まらず、10月6日の阪神タイガース戦で山本昌が19勝目をあげると、ついにジャイアンツと同率で並んだのである。信じられないことに、10月8日、69勝60敗同士での最終戦でペナントレースが決着することになったのだ。舞台は本拠地・ナゴヤ球場だった。
前日10月7日のジュネーブでの日記にはこう記されている。
「いよいよ明日8日、ナゴヤ球場では中日と巨人がシーズン最終戦。そして、このゲームの勝者が優勝!もうワクワクするよりも、悔しさが全面にある。この日に日本にいて応援できない、取り残された悔しさ・・・。米朝交渉は大詰めだ」

「10・8決戦」ジュネーブの朝

10月8日午前9時40分(日本時間8日17時40分)・・・私はアメリカ合衆国代表部の前にいた。
ジュネーブはとてもいい天気で、門の前での“張り番”も気持ちのいい一日だったが、胸の中は嵐が吹き荒れていた。日本そして名古屋では、まもなくとんでもない決戦がプレイボールとなる。それなのに、自分はその場にいない。こんなところで一体何をしているのか?とまで思っていた。国際的に重要なニュース現場にいながら、実に不謹慎なことを思っていたのだが、ドラゴンズファンとしてはいざ仕方なし。
時計を見ながら、8時間の時差を常に意識していた。名古屋は大変な興奮なのだろう。いや、名古屋どころではない、日本中が、この「10・8決戦」に沸き立っていることだろう。ましてや土曜日なのだ。ジュネーブの空は青い。まさにドラゴンズブルーである。
すると、領事館の職員からのブリーフィングで、本日の交渉が午後3時からに延期されたことが発表された。それまで5時間、動きはないと思われる。いったんホテルに引き上げることになった。その瞬間、心はスイスから日本へ、ジュネーブのレマン湖畔から名古屋のナゴヤ球場へと・・・飛んだ。

国際電話で聴く実況中継

ホテルの部屋から名古屋のCBC本社に電話すると、すでにゲームは始まっていて、
2対3でジャイアンツにリードされていると言う。ジャイアンツの得点3点は、すべて落合博満選手の打点と言う。かつての“落合番”と“ドラゴンズファン”の2つの心が乱れる複雑な心境だ。
名古屋の実家の父には、ゲームが決着する少し前に電話をかけてラジオの実況を聞かせてほしいと依頼してあった。
そして、13時20分(日本時間8日21時20分)、ホテルの電話交換台を通して、日本からの電話がかかってきた。父である。
「もうあかんぜ。負け負け。テレビ見とれせんぜ」
名古屋弁を聞きながら、しかし、現実はしっかり受け止めようと、受話器をラジオに近づけてくれるようお願いする。

決戦に敗れたドラゴンズに涙

最後のバッターは代打の小森哲也選手。ジャイアンツの桑田真澄投手によって、空振り三振に仕留められた。6対3でドラゴンズは敗れた。
絶叫するアナウンサーの実況中継を実に冷静に聴いていた。ただ「落合選手が泣いている」という下りには、心がざわついた。
その後、再びアメリカ合衆国代表部前に戻る。事情を知っている他社の特派員たちから、ドラゴンズ敗戦を慰められる。「きょうは荒れるでしょう?」とも言われ苦笑いする。
こうして、私にとっての「10・8決戦」は、秋のジュネーブ、レマン湖畔で実にあっけなく終わった。
その後、この「10・8決戦」は、ドラゴンズファンの間で、もちろんプロ野球ファンの間で語り継がれる。球場にいたという友人もいる。ドキュメンタリー番組も制作され、本まで出版される。しかし、そこに自分はいなかった。でも、いなかったからこそ、
忘れえぬ「10月8日」なのかもしれない。・・・と負け惜しみでつぶやく。

タイトル独占のドラゴンズ

最後まで優勝を争ったドラゴンズ。1994年は、投手では、郭源治投手が「最優秀防御率」、山本昌投手が2年連続の「最多勝利」と「沢村賞」を獲得。
打者では、アロンゾ・パウエル選手が初の「首位打者」、大豊泰昭選手が「ホームラン王」「打点王」の2冠となるなど、ドラゴンズがタイトルを総ざらいした年だった。
たったひとつ、「優勝」という最大のタイトルを除いて・・・。

米朝交渉は、北朝鮮がプルトニウム濃縮計画を凍結し、IAEAの監視を受け入れることで合意した。
私がジュネーブを発ってウィーンへ戻ったのは、10月21日だった。
「10・8決戦」でドラゴンズを破ったジャイアンツが西武ライオンズと戦う日本シリーズの開幕前日のことだった。(1992~1994年)

【CBCテレビ論説室長・北辻利寿】

※ドラゴンズファンの立場で半世紀の球団史を書いた本『愛しのドラゴンズ!ファンとして歩んだ半世紀』(ゆいぽおと刊・2016年)を加筆修正して掲載いたします。

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