ドラフト会議クラス特派員が伝える「ドラゴンズ指名1位は・・・」(08)

ドラフト会議クラス特派員が伝える「ドラゴンズ指名1位は・・・」(08)

プロ野球には「ドラフト会議」という制度がある。正式名称は「新人選手選択会議」と言い、1965年(昭和40年)に第1回会議が開催された。
各球団がルールに沿って、入団させたい選手を会議によって指名していくもので、球団への好き嫌いや、人気度、資本などの力などによって、実力が偏らないよう始められたものである。

昭和時代のドラフト会議

私の高校時代、ドラフト制度は実にシンプルなもので、12球団がくじによって指名順を決め、それに沿って選択希望選手を指名していく方式だった。
だから、まず中日ドラゴンズが何番目の指名権を得るか、そして他球団が先に誰を指名して、ドラゴンズは自分の番に誰を指名するのか、それだけを気にしていた。
私はこのドラフト会議が大好きだった。だから、この日は朝からソワソワして、授業どころではなかった。
現在のように、ドラフト会場からのテレビ生中継があるわけでもなく、インターネットでの速報があるわけでもない。ではどうやって、ドラゴンズの指名情報を得るかと考えた末、私が選んだのは、ドラゴンズの球団事務所へ直接電話することだった。

誕生!ドラフト会議クラス特派員

高校生がいきなり電話をしてきて、指名順とか誰を指名したかとか尋ねるのだから、球団の職員の方も戸惑ったことと思う。最初の年は見事に成功した。
通っていた高校の校内には公衆電話が1つしかなかったが、正面玄関の事務室脇に置かれたその赤電話から、情報を得た。
1975年(昭和50年)ドラフト会議での田尾安志選手(同志社大学)の指名は、球団事務所から聞き出してクラスのドラゴンズファンにいち早くそれを教えて、皆で盛り上がった。
しかし、さすがに球団事務所も相手をしていられなくなったのか、翌年になると「忙しいから答えられない」と対応してもらえなくなった。高校生とはいえ、私はこれであきらめるほどヤワなドラゴンズファンではなかった。筋金入りである。
ならば、と次に思いついたのが、名古屋市中村区向島にあったドラゴンズの合宿所だった。ここなら情報も入っているだろうと推測して、公衆電話からかけると、予想は的中。1976年(昭和51年)の都裕次郎投手(滋賀・堅田高校)の指名は、合宿所にいて電話を受けて下さった“男性”から教えられた。その男性が寮長か職員の方か選手か、誰かはわからないが、ファンとしてはありがたい対応だった。

江川投手ドラフトへ注目

高校3年生の1977年(昭和52年)に迎えたドラフト会議は、単にドラゴンズが誰を指名するかどうかということだけではなく、もうひとつ大きな注目があった。江川卓投手の行方である。
作新学院高校時代から「怪物くん」と呼ばれ、東京六大学の法政大学では47勝を挙げたドラフトの超目玉は、読売ジャイアンツ入りを熱望していた。指名順の1位を引き当てたのはクラウンライターライオンズ(現・西武)、ジャイアンツは2位だった。
「巨人以外は行かない」と明言していた江川投手を、クラウンライターが果敢に指名するのか?全国の注目が集まったドラフト会議だった。
そして、あろうことかドラゴンズは指名順最下位の12位。12番目の希望選手しか獲れないということだ。

12番目でドラゴンズは誰を?

私は前年に続き、ドラゴンズの合宿所に電話する。その年も電話に出た“男性”は、高校生ファンの電話に対して、親切に応対してくれた。12球団の指名順を教えてもらい、ドラゴンズの指名順12位に大きなショックを受けた。12番目である。
しかし、それにもめげず、結果をいったん教室へ持ち帰る。クラスの友人たちが待っている。
しばらく時間をおき、いよいよ誰を指名したのかを再度、合宿所に問い合わせて、まずクラウンライターが江川を指名したことを知った。続いて、指名順2位の読売ジャイアンツは早稲田大学の捕手・山倉和博を指名した。名古屋出身の素晴らしいキャッチャーであり、ドラゴンズも欲しい選手だった・・・。
ショックだったのは、指名順4位の阪神タイガースが、三協精機の伊藤弘利投手を獲得したことだ。伊藤投手はかつて1972年(昭和47年)にドラゴンズが指名したが入団せず、この年のドラフトではドラゴンズ入団を熱望していたからだ。

ダブル1位?藤沢投手と小松投手

ドラゴンズの前の指名順11位、ロッテオリオンズは、法政大学で江川とバッテリーを組んでいた袴田英利捕手を指名した。そしてドラゴンズは・・・過去ドラフトで3度指名されながらも入団を拒否してきた社会人野球・日鋼佐賀関の藤沢公也投手を指名した。パームボールを投げる即戦力投手だ。
2位指名、今度は折り返してドラゴンズから指名ができる。すなわち、12番目に続き13番目に選手を指名できるのである。ここでドラゴンズは、北陸は石川県にある星陵高校の剛球投手・小松辰雄を指名した。自分と同じ高校3年生でもある。ドラフト1位でも十分通用する実力を持った投手だけに、藤沢投手が入団すればラッキー、入団しなくても小松投手が1位と同格として入団するという賭けに出たのでは?と高校生なりに解釈した。

クラス速報中に授業が始まった!

こうした指名結果を取材して教室へ戻り、皆に知らせるため黒板・・・それも教室うしろの黒板ではなく、正面にある教壇の黒板の右5分の1ほどのスペースに書いていたら、授業の開始時間になり、世界史の先生が教室へ。
黒板に向かっている私に「どうしましたか?」と尋ねる先生。正直に事情を説明し、「クラウンが江川を指名し去就が注目される事態」と告げると、「それは気になることだ」と先生。そのまま教室の黒板に12球団の1位指名選手を書き続けるよう勧めて下さった。
江川投手をめぐるドラフト騒動は、日本史の中「スポーツ史」の1コマとして加えられないことはないと思うが、さすがに世界史というスケールではない。しかし、それを授業中に許可して下さるとは・・・。
「自主自立」「自由な校風」をモットーとする我が母校・愛知県立明和高等学校は今ふり返っても、実にユニークな高校だった。
ちなみに、その世界史の先生が巨人ファンであることを知ったのは、ずいぶん後のことだった。

入団拒否に江川投手は何処へ?

江川投手は記者会見して「最後は自分の意思で決める」と宣言する一方、後見人である船田中・元衆議院議長と相談すると明かした。夜になって船田議員の秘書が「明後日、江川父子と話をする。クラウンに行かなければ母校・作新学院で監督をしてもいいし、アメリカ大リーグへ野球留学してもいい」と入団に消極的なニュアンスを匂わせた。
ここに政治家が出てきたことは、プロ野球を愛する高校生にとっても何とも腹立たしいことだった。
その一方、阪神に指名された伊藤投手が「阪神には悪いが、好きな中日しか頭になかった」と語った言葉に留飲を下げた思いだった。
その年のドラフト、結果、江川は浪人、伊藤は阪神に入団、藤沢は社会人残留、そして小松は実質的な1位としてドラゴンズに入団した。
江川投手をめぐるドラフト騒動は翌年、単なるスポーツ史の枠を越えるほどの局面を迎える・・・。そしてこの年のシーズンを最後に、20年ぶりの優勝でファンを狂喜させてくれた与那嶺要監督はユニフォームを脱ぎ、後任に10年ぶりの生え抜き監督となる中利夫さんが就任した。

与那嶺監督の最後のゲームは秋も深まりつつあった10月18日。大洋ホエールズとのダブルヘッター第2戦だった。
わが日記には、星野仙一や高木守道ら選手たちが申し出て、1974年(昭和49年)の優勝メンバーが守備についた、と書かれている。
与那嶺監督への選手からの“お別れセレモニー”だった。ドラゴンズは本当に素晴らしいチームだと感激した。(1977年)

【CBCテレビ論説室長・北辻利寿】
※ドラゴンズファンの立場で半世紀の球団史を書いた本『愛しのドラゴンズ!ファンとして歩んだ半世紀』(ゆいぽおと刊・2016年)を加筆修正して掲載いたします。

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