日本で進化した「歩道橋」、その背景には高度成長期のクルマ社会があった!
通っていた小学校前の県道に「歩道橋」ができた日のことは今も鮮明に覚えている。昭和の時代、たしか渡り初め式もあった。家は道路の学校側にあったため、通学に歩道橋を利用する必要はなかったが、物珍しさから度々それを渡って行き来した思い出はなつかしい。
歩行者専用の橋、記録に残っている最も古いものは19世紀初めフランスのパリ。セーヌ川に右岸と左岸を結ぶ、歩行者のための橋が作られた。命じたのは時の皇帝ナポレオン・ボナパルトと言われている。川のほとりに後に美術館になるルーブル宮があったことから、「芸術橋(Pont des Arts)」と呼ばれた。その後、各地に歩道橋が作られていったのかというと、実はそうではなかった。街並みの景観を大切にするヨーロッパの国々では、それを損ねるような歩行者用の橋が作られることはあまりなかったのだ。しかし、日本では事情が違っていた。
日本で最初の「歩道橋」は、1959年(昭和34年)に愛知県西枇杷島町(現在の愛知県清須市)の国道22号と言われる。名古屋市の北西部に位置する西枇杷島町(当時)は、名古屋の都心と名神高速道路のインターチェンジを結ぶ間に位置する交通の要所、全国でも有数の交通量だった。国道の近くには、幼稚園、保育園、小学校そして中学校があり、子どもたちは国道を横断して通学しなければならなかった。交通事故も毎日のように起きていた。そこで地元が要望し、建設省(現・国土交通省)と愛知県警などが検討して、道路をまたぐ歩行者専用の橋を架けることになった。名づけて「学童専用陸橋」、子どもを交通事故から守ることが大きな目的だった。
これをきっかけに、歩道橋は日本国内でどんどん増えていった。その理由は、当時の“クルマ社会”だった。高度成長期を迎えた日本では、マイカーを持つ人が一気に増えて、それと共に交通死亡事故も増え続けた。大阪で万博が開催された1970年(昭和45年)には、年間の交通死者の数が1万6765人になり、戦争での死者数よりも多いという理由で「交通戦争」とも呼ばれる社会問題になった。こうした時代のニーズと共に、日本全国で歩道橋は増え続け、およそ1万2000橋にまで増えていった。
海外では定着しなかった歩道橋だが、日本では時代と共に様々な進化を遂げていった。自転車でも利用しやすいようにと階段と共にスロープを付けたり、階段を上がることがつらい高齢者のためにエレベーターやエスカレーターを付けたり、新たな工夫を凝らした歩道橋も作られた。津波など災害の時には避難施設に代わる歩道橋もある。静岡県吉田町には、橋の幅を広くするなどして、最大1200人が橋の上に避難できるという歩道橋も登場した。
しかし、日本にお目見えした当時は、信号を待たずに渡ることができると歓迎の声が多かった歩道橋だが、その役割にも変化が訪れる。少子化によって、子どもの数が減ってきて、守ろうとした対象自体が少なくなってしまった。また、歩道橋は“車”を中心にした考え方で、肝心の“人”が置き去りにされているのではないかという批判も根強く残っていた。最近では、老朽化した歩道橋で利用者が少ないものは、新たに架け替えたりせずにそのまま撤去されるケースも増えてきた。国土交通省による最新の調査で、2020年には全国で1万1622か所あるが、当初の役目を終えて次第に姿を消し始めている歩道橋も多い。
歩行者のための橋、しかしその実態は、高度成長期のクルマ社会を支えるためでもあった。「歩道橋はじめて物語」のページには、戦後ニッポンの歩み、その確かな1ページが“行き交う数多の轍(わだち)を見下ろすように”刻まれている。
【東西南北論説風(364) by CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】
※CBCラジオ『多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N』内のコーナー「北辻利寿の日本はじめて物語」(毎週水曜日)で紹介したテーマをコラムとして執筆しました。