来春ナゴヤ球場に再び「燃えよドラゴンズ!」熱唱がよみがえるのか?
プロ野球2019年のオープン戦日程が発表された。2月23日に沖縄での3試合から始まり全部で101試合、その内、ひときわ目を引いたのが「3月7日 中日―DeNAナゴヤ球場 13:00」という欄である。ナゴヤ球場に1軍のゲームが帰ってくる。
感動!ナゴヤ球場ラストゲーム
最後の1軍公式戦は1996年(平成8年)10月6日の讀賣ジャイアンツ戦だった。
ドラゴンズがこのゲームを含めて残り3試合を全勝すれば、首位を走るジャイアンツと同率のプレーオフにもつれ込むという大切なゲーム、まさに両チームが同率で最終戦を戦った2年前の「10・8決戦」の再来だった。
しかし結果はドラゴンズの負け。またもナゴヤ球場で長嶋茂雄監督の胴上げを見ることになった。
ゲーム後のセレモニー、星野仙一監督の「さようならナゴヤ球場。最高の球場だと思っております」という挨拶に送られて、ドラゴンズの本拠地はナゴヤドームに移った。
有料のゲームとしてはそれ以来、実に23年ぶりのこととなる。
ナゴヤ球場の魅力を語ろう!
ドラゴンズファンの間で、ナゴヤ球場のゲームを懐かしがる声は多い。
夜空に浮かびあがるカクテル光線。それに映える芝生の美しさ。星空を見上げながら飲むビール。コンクリート剥き出しの階段。「井戸水ですから飲めません」と書かれたトイレ洗面所の水道管。美味しかった焼きそばに串カツ。勝っていようが負けていようが接戦であろうが、7回になると無料開放された外野スタンド。痛烈だがユーモアあふれるヤジを飛ばした私設応援団。紙吹雪のために広告チラシをハサミで切る子供たち。グラウンドとの距離が近いためヤジに呼応する選手たち。
「人肌の温かさがある」球場だったと記憶する。
悲しい歴史もあった・・・
地元中学校の学校誌には悲しい歴史の写真が掲載されている。球場の火災である。
1951年(昭和26年)8月19日、ナゴヤ球場の前身・中日スタヂアムのスタンドで火事が発生して3人が死亡、300人以上がケガをするという大惨事があった。「中川消防署提供」とある写真には、炎を背に避難する人たちの姿が映っている。思えばこれもジャイアンツ戦だった。
この時のスタンドに当時は小学生だった高木守道さんが観客としていたというエピソードも知られている。後にドラゴンズそして日本プロ野球界を代表する名セカンドとして活躍し、二度にわたってドラゴンズの監督もつとめたモリミチさん。ナゴヤ球場にはそんな思い出も残っている。
ジュリーもサザンも歌った球場
コンサートの会場としても度々利用された。夏の夜、球場に近い自室の窓から沢田研二さんの歌声が聞こえてきたことがある。チケットが完売して入場できなかったファンも球場外で歌声を楽しむことができた大らかな時代だった。
しかし近隣から騒音への苦情も増えて、コンサートは姿を消す。
ナゴヤ球場での最後の野外コンサートを飾ったのは、サザンオールスターズだった。
1996年9月7日、「ザ・ガールズ万座ビーチ」と名づけられたコンサートツアーは感動のステージだった。
プロ野球だけでなく、地元の多くの人に愛されたナゴヤ球場。今はドラゴンズの練習球場として、またウエスタンリーグの球場として使用されている。
歴史の証人・照明塔の巨大電球
ナゴヤ球場照明塔の巨大電球が手元にある。現在はすべて撤去されたがナゴヤ球場には8基の照明塔があった。数えると1塔あたり120個の電球が付いていて全部で960個、その内の1個である。
1998年5月、照明塔が撤去される時に「廃棄するなら1個下さい」と許可をいただきもらい受けた。抱えると全体で1メートルほどの大きさである。しかしファンにとってこの電球はただの電球ではない。雨の日も風の日も真夏の暑い日も、ドラゴンズの歴史を見守ってきた、言うなれば“目”である。1954年の初の日本一、1974年の与那嶺要監督による20年ぶりにリーグ優勝、そして「10・8決戦」など“歴史の目撃者”でもある。ガラス面にはドラゴンズの監督だった故・近藤貞雄さんがサインをして下さった。2017年にナゴヤドーム内「ドラゴンズワールド」で開催された「懐かしのドラゴンズグッズ展」に出品したが、こうした思い出の品にこだわりを持たせる“何か”がナゴヤ球場にはあった。
かつてナゴヤ球場マウンドで150キロ超の剛球を投げて鮮烈なデビューを果たした与田剛投手が監督としてどんな姿を見せるのか。
中学時代の中日ドラゴンズ杯でプレーした根尾昂選手が思い出多いグラウンドで背番号「7」の雄姿を見せるのか。
応援歌「燃えよドラゴンズ!」大合唱が春の空にこだまする・・・郷愁と新生ドラゴンズへの夢が入り混じって、2019年3月7日のナゴヤ球場は大いに盛り上がる予感がする。