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家康の最大のピンチを救った豪商・茶屋四郎次郎とは?

家康の最大のピンチを救った豪商・茶屋四郎次郎とは?

400年の時を経て現代に蘇った名古屋にゆかりの武将たちと足軽集団・名古屋おもてなし武将隊(R)。日本の歴史を楽しく紹介する歴史バラエティ番組です。8月1日放送のCBCラジオ『伝令!武将が現世でラジオを始めたようです!』では豊臣秀吉・徳川家康・陣笠隊の足軽・十吾の3名が出演し、「この日何の日?」コーナーで「茶屋四郎次郎の死去」について取り上げました。

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茶屋四郎次郎が死去した日

「この日何の日?」コーナーは、先週土曜日から今日までの1週間の日付で過去に起こった歴史上の出来事・記念日を解説。いくつかある話題の中で取り上げたのは、1596年7月27日に徳川家御用商人である茶屋四郎次郎が死去した件について。

徳川家康「これは儂にとって大切な豪商、すなわち大金持ちじゃの。この者が織田信長殿が斃れた本能寺の変の後に、儂を助けてくれたわけじゃ」

もともと茶屋四郎次郎の父親が徳川家に仕えており、武士として活躍していました。しかし、怪我をきっかけに商人へと転身。その息子が今回の話題の人物、初代茶屋四郎次郎というわけです。

豊臣秀吉「確かに、我らの時代は怪我がもとで商人になったりというのはあったの。信長様の家臣で言うと、もう武士は嫌じゃと建築(築城)の道へ進んだものもおったりな」

武士をやめて他の道へ進むケースは他にもあり、決して珍しい事ではなかったようです。

武具の調達や情報収集を任務に

茶屋四郎次郎は徳川家康の近習(そば仕え)でした。

家康「ずっと昔から、儂のことをよく知っておった者での。そのため、儂が岡崎やそのほかの場所におっても、その者を京都に遣わすことで情勢がよく分かったんじゃな。そしていざ戦いとなれば、戦にも加わるわけじゃ。
戦うというより物資を運ばせたり、鉄砲や甲冑などの武具などを調達させる特殊な任務を担っていたのがこの者の仕事じゃな」

十吾「実際に戦うわけではなく武具を調達して、戦に役立てるという役目だったと」

ちなみに、茶屋四郎次郎は「茶屋」が苗字、「四郎次郎」が名前。家康も元々は徳川次郎三郎と名乗っていた時期があります。
徳川家の祖先で「次郎」と名のついた者と「三郎」と名がついた者が活躍したため、そのご利益にあずかるためだったそうです。ゆえに、茶屋四郎次郎の名も、以後代々嫡男へと継いでいくこととなりました。

家康のピンチを救うため用立て

話は戻り、この初代茶屋四郎次郎が最も活躍したのは、本能寺の変の直後。

家康「織田信長殿が殺されたのか、逃げているのか戦っているのか情報が錯綜しての。当時(大坂の)堺におった儂の元に情報はたくさん入るんじゃけど、茶屋四郎次郎が馬で駆けつけてくれて『様々な情報が飛び交っておるが、信長殿の死去は確実。
次に明智(光秀)殿が狙うのは御屋形様なので逃げてくだされ』と申してくれたおかげで、儂は混乱することなく岡崎へ戻ることができたんじゃ」

十吾「家康様にとって、重要な判断をするための一助となったと」

秀吉「これが、服部半蔵隊が演舞でやっておる『伊賀越え』じゃ」

この時、馬で駆け付けた茶屋四郎次郎はこれから岡崎へ戻る家康のために、道中必要になるであろう金銀などを多く準備してきていたそう。
これは、家康が岡崎まで間に、便宜を図ってもらったり、助けてもらう際の交渉に必要となる軍資金として用意してくれたものでした。

家康「伊賀越えというピンチを乗り切るために、鉄砲や刀よりも大きな武器になったのがこの金銀という財力だったんじゃ」

その後の茶屋家は、京都・江戸・尾張と3つに分かれ、尾張茶屋家は現在も名古屋城のすぐ南の丸の内に多くの学校を運営、現在の港区には「茶屋」という地名があり埋め立てて茶屋家の土地として徳川家が許したとされています。
もちろん、尾張徳川家にも使えており「名古屋との縁は深い」と締めくくりました。
(葉月智世)
 

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