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「ピエロと呼ばれた息子」~道化師様魚鱗癬との闘い~

はじめに

『道化師様魚鱗癬(どうけしよう・ぎょりんせん)』とはヒトの皮膚の難病・道化師様魚鱗癬である。病名には道化師=つまりピエロという言葉と、魚鱗…魚のウロコという漢字が入っているのだ。国内では30万人に1人の難病と言われているが、三重県松阪市には、この難病と闘っている3歳の男の子がいる。
男の子の母親、濵口結衣(はまぐち・ゆい)さんは一冊の本を出版した。タイトルは『産まれてすぐピエロと呼ばれた息子』。ペンネームは『ピエロの母』。

濱口さんのひとり息子賀久(がく)くんは2016年12月、生まれてすぐに、皮膚の難病=道化師様魚鱗癬と診断された。
「道化師様魚鱗癬っていう漢字でならんでいるのを見たときに何だこれ…と。道化師…ピエロ…魚…魚鱗で魚のウロコ…どういうことやろうと」

本に記された母の言葉には・・・

本には、濱口さんの出産当時の心境がこう記されている。
「あれは…なんだ?私は、何を産んだの?…人じゃない」

魚鱗癬は、遺伝子に異常のある先天的疾患で、全身の皮膚が乾燥して魚のウロコのように剥がれ落ちる。特に「道化師様魚鱗癬」は魚鱗癬の中でも重症で、国内での正確な患者数は分かっていないが、30万人に1人と推定されている。
賀久くんは、仮死状態で生まれ、全身の皮膚の異常、指の癒着、耳の変形なども認められ、すぐに集中治療室に移された。

濵口さん曰く、「確かに生まれてすぐ赤と白のギザギザで、確かにピエロが着る服に似てる」とのこと。皮膚の見た目がピエロが着る『道化服』に似ているところから、その病名がついている。

賀久くんの皮膚の保湿機能はほとんど失われていて、体中に痒みが出る。
細菌やウィルスをはねのける皮膚の機能が極端に弱いため、感染症を防ぐためにもワセリンは頻繁に塗らなければならない。
そして、夏でも常に長袖・長ズボン。皮膚が固くなり、変形があるため、左右の足には装具をつけている。濱口さんはこれまで、冷ややかな視線に押しつぶされそうになったこともあると言う。
「この難病がほとんど知られてなく、見た目で分かる病気なので…外に出た時に、見た目から『火傷を負わせた』とか、怖がられたりすることもあった」
濱口さん夫婦が去年、この本を出版したのは、病気のことを少しでも知ってもらいたいという思いからであった。

道化師様魚鱗癬との闘いを取材

賀久くんが生まれた病院は、津市の三重中央医療センター。
主治医の小川昌宏医師はこう説明する。
「皮膚の材料となるのは水分やたんぱく質、脂肪…いろんな成分がありますので栄養を補っていかないと。保湿ケアととともに栄養をしっかりとることが大事です。」

賀久くんが1日に必要なエネルギーは、成人男性の目安とされる、およそ2400キロカロリーより多いといわれる。(農水省データ)
賀久くんの摂取カロリーは、その日の皮膚の落ち方や調子によって、食べる量や飲む量で変わってくるそうだ。だいたい6食から10食摂取し、朝昼晩だけでは足りない。ご飯の間にもおにぎりを食べたりして補っている。
そんな中で一番つらいのは、朝晩の入浴の瞬間だ。濡れるときにしみるようで、「助けて」、「やめて」と泣き叫ぶときがある。それでも感染症予防のため、皮膚は清潔に保っておく必要がある。そして、風呂上りには保湿ケア。ワセリンは全身にくまなく塗布。1日数回にわたって塗る必要があり、1~2本を使い切る。
小川医師曰く、「病気自体が完治するわけではなく、保湿は続けていく必要があります」

濱口さんは本に出産当時のことをこう記している。
「全身の皮膚は正常な皮膚が1ミリもない」。根気のいる対症療法が続く日々だ。

大きな一歩

賀久君はこの春、幼稚園に入園することに。大きな一歩だ。感染症を心配し入園をためらっていたが、賀久くんが「同年代の子供たちと遊ぶほうがいい」と両親が判断した。
通うのは家の近所の松阪市立山室幼稚園だ。

西田尚史園長は賀久くんが入園するにあたって、入園前に母親の濱口さんとスタッフと一緒に勉強会を開いた。
例えば、給食前には手をアルコール消毒するが、賀久くんは霧状のアルコールは痛がる。特に硬くてダメージがある指先は痛がる。その場合、アルコール除菌シートで代用したほうがいいという注意点などを共有することに。
そのほか、ワセリンの塗り方や賀久くんの食事の量についても濱口さんから先生たちに普段の様子が伝えられた。
西田園長は「他の子たちも学ぶことはある。お互いに学びあうということが大前提」と言う。

未来に向かって・・・

2020年4月、入園式の日は賀久くんにとっては、「いい天気」とは言えない快晴であった。紫外線は大敵で、太陽の下では20分くらいが限界ではあるが、歩いて登園。
これまで感染症予防のため、家族以外の人との接触はほとんどなかったが、はじめて同世代の子どもがいる場所へ来たのだ。
しかし、この後、新型コロナの影響で幼稚園は休園、2か月後に幼稚園が再開した。
先生が保湿ケアをし、天候と相談しながら外で遊ぶかどうかを判断する。
賀久くんの小さな挑戦の積み重ねが始まったのだ。

濱口さんは、「賀久自身は難病で出来ないこと、行けないところが多いとは今は感じられない。これから自分の病気を理解し、完治はできないが、うまく付き合って頼もしく育ってくれれば」と祈る。

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