みんな大好き「あんぱん」誕生秘話~和洋折衷で焼き上がったニッポンの味と心
毎日の朝食でパンを食べる人も多いだろう。「パン」なる食べ物がヨーロッパから日本に入ってきたのは、16世紀の室町時代と伝えられる。航海中に種子島に漂着したポルトガル人が持ち込んだパンから、日本オリジナルの「あんぱん」が誕生するまでの道をたどる。
明治時代に入った日本では、西洋文化が盛んになって、パンを作り始める職人も増えた。
横浜や神戸などの港町でも次々とパン屋が店を開いた。そんな中のひとりに、茨城県出身の木村安兵衛さんがいた。木村さんは、1869年(明治2年)に、東京で「文英堂」というパン屋を始めた。しかし、まだまだパンは日本の人たちが日常的に食べるものではなく、何より、欧米でパン生地を発酵させる時に酵母として使うイースト菌は希少で、なかなか手に入らなかった。とてもポルトガルのあるヨーロッパのようなパン作りはできなかったのである。
そんな時、木村さんは、酒蔵で日本酒を作る時に使う酵母、米と麹からできる「酒種」を使ってパンを焼くことを思いつく。形は丸くして、平らにした。それは和菓子の製法だった。「和菓子に近いものならば」と、木村さんは生地の中に、日本伝統の餡(あん)を入れてみた。さらに、食感のよいケシの実を付けて焼き上げた。こうして出来上がったのは、和と洋を合わせた味、まさに和菓子の延長線上に誕生した日本オリジナルのパン「あんぱん」だった。この「文英堂」こそ、現在の「木村屋總本店」である。
創業から5年たった1874年(明治7年)に「あんぱん」は発売された。翌1875年には、東京の向島を訪れた明治天皇に献上されたと木村屋總本店のホームページは当時を語る。天皇も皇后も「あんぱん」をとても気に入って「引き続き納めるように」との言葉を残したと言う。現在ではイースト菌も使われるが、伝統の「酒種」を使っての「あんぱん」は、木村屋總本店の“味”として、今も多くの人々に愛されている。
日露戦争が近づき、軍はパン屋と菓子屋を集めて、大がかりなビスケット工場を建設した。戦場では火を使って米を炊くわけにはいかず、欧米の兵士のようにビスケットを食料にするためだった。木村さんの次男である儀四郎さんは、この工場でビスケットの生地にジャムをはさんで焼く作業をしながら思いつく。
「パンにジャムを入れても美味しいのではないか」
焼いてみたところ、ふっくらとしたパンと甘酸っぱいジャムの組み合わせは絶妙だった。1900年(明治33年)、父が作った「あんぱん」に続き、今度は息子が「ジャムパン」を誕生させた。あんぱんとジャムパン、木村父子のアイデアがここに結実した。
その後、東京の菓子店がシュークリームにヒントを得て、クリームを入れて焼いた「クリームパン」を製造発売し、これも人気を得る。餡(あん)についても、栗、芋、かぼちゃ、さらにフルーツのジャムなど、多くの味がパンの中味として使用された。「カレーパン」まで登場した。欧米ではサンドイッチやハンバーガーのように、パンに何かをはさんだり、バターやペーストを塗ったりするが、「中に何かを入れて焼く」というスタイルは、懐深く“包み込むような”まさに日本独特のパン文化だった。
西洋から伝わったパンの中に、伝統の和の味を入れて焼き上げることで「あんぱん」を生み出したニッポン。「あんぱんはじめて物語」のページでは、日本の食文化の歩み、その確かな1ページが“ふっくらと風味豊かに”焼き上がっている。
【東西南北論説風(314) by CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】
※CBCラジオ『多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N』内のコーナー「北辻利寿の日本はじめて物語」(毎週水曜日)で紹介したテーマをコラムとして執筆しました。