パイナップルが缶詰になった理由とは?石垣島を舞台にした南国フルーツの歴史
生まれて初めて食べたパイナップルは缶詰だった。リンゴもミカンもブドウも、多くの果物は“生(なま)”のものを食べるのに「なぜ?」。パイナップル缶詰の日本での歩みを追う。
パイナップルは南アメリカの熱帯地方原産のフルーツ。果実の形が松かさに似ているため「Pine(パイン)」、味はリンゴのように甘酸っぱいため「Apple(アップル)」、ここから「パインアップル=パイナップル」と名づけられた。そんなパイナップルが日本にやって来たのは江戸時代の末期、当時はまだ琉球だった沖縄の石垣島にオランダ船が苗をもたらした。その苗を島の人たちが植えて、育てた実を食べてみたら美味しい。パイナップルはこうして島に根づいていった。
石垣島の環境はパイナップルの生育に適していた。沖縄の土壌は酸性土で、一般の作物には合わなかったが、パイナップルにはむしろ合っていた。また台風などによる雨や風に強い植物だったため、パイナップルの栽培は石垣島から隣の宮古島など、琉球の島々で行われるようになった。
しかし、その味が日本国内に広がったのは、パイナップルそのものではなく、実の中味を缶詰に加工したものだった。そこには大きな理由がある。パイナップルは、生のままでは日持ちしにくい果物だった。例えば同じ南国フルーツのバナナは、収穫してから日に日に熟していくが、パイナップルは時間をおいたからといって糖度が上がるわけではない。収穫したら早めに食べた方がおいしかった。しかし、当時は今のような航空便はなく船、温度を低く保つための保冷設備もない。その魅力的な果物を島の外に運んで広く販売するために考え出されたのが“缶詰に加工すること”だった。海外のパイナップル産地であるハワイや台湾なども同じ事情だった。
石垣島でのパイン缶製造は、その台湾に由来する。1935年(昭和10年)、日中戦争が近づく中、台湾でのパイナップル生産も難しくなり、農家の人たちはパインの種や苗を持って、石垣島へ集団移住してきた。社団法人「日本パインアップル缶詰協会」によると、缶詰を製造する会社「大同拓殖」を設立して、パイン缶作りも始まった。当時はまったくの手作業で、パインの実をカットし、芯も手でくり抜いて、丁寧に輪切りにした上で缶に詰めていったという。3年後の1938年、パイン缶500ケースを出荷、これが日本で作られた国産「パイナップルの缶詰」第1号だった。
工場でのパイン缶作りは、戦争でいったんストップしたが、終戦後の1949年(昭和24年)に再開した。沖縄は本土復帰前だったため、缶詰は「日本への“輸出”」という形で全国に運ばれた。最初は数も少なく高級品だったため、パイン缶は主に贈答品用として使われたが、昭和40年代に入ると、次第に家庭の食卓へと広がっていった。親しまれているパイナップル飴(あめ)、それはパインを輪切りにした形になっている。そんな飴の姿からも、パイナップルが缶詰という存在を通して、日本全国の人たちに親しまれていったことが分かる。
航空便など流通システムが発達した現在、沖縄県産のパイナップルは、畑から採れたばかりの新鮮なものが、全国各地に出荷されるようになった。このため、沖縄県内のパイナップル工場も、本島北部の東村(ひがしそん)にある1か所だけになった。同時にこれが日本国内で唯一の工場でもある。パイン缶は年間3万ケースが生産されている。
海の向こうからやって来たフルーツが、缶詰という形を通して沖縄の島から全国に広がっていった。「パイナップルの缶詰はじめて物語」のページには、日本の文化の歩み、その確かな1ページが“甘酸っぱく”刻まれている。
【東西南北論説風(338) by CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】
※CBCラジオ『多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N』内のコーナー「北辻利寿の日本はじめて物語」(毎週水曜日)で紹介したテーマをコラムとして執筆しました。