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暮らしに欠かせない「天気予報」その日本での歩みは“交番”から始まった!

暮らしに欠かせない「天気予報」その日本での歩みは“交番”から始まった!
CBCテレビ:画像『写真AC』より「晴天の空」

夕焼け空を見るといつも思う「明日は晴れるかな」。紀元前の昔から、人々は雲の動きを見て、天気を予想したと言う。それは天候の様々なパターンによる“経験”に基づくものだった。「天気予報はじめて物語」はそこから始まっていく。

世界で最も天気予報にこだわった国はイギリスと言われている。かつて訪れたロンドンの町で経験したことがあるが、常に傘を手放せないほど、その天気は変わりやすい。1854年にイギリス気象庁が誕生、世界に先駆けての気象機関だった。日本に天気予報の大切さを伝えたのも英国だった。明治新政府が、産業振興の指導者として招いた英国人H.B.ジョイネルさんは、気象観測の重要性を説き、1875年(明治8年)に「東京気象台」が生まれた、現在の「気象庁」の前身であり、その年の6月1日から日本でも、気象観測が始まった。

やがて1884年(明治17年)にスタートした日本初の「天気予報」、記念すべき最初の予報は、この文言だった。
「全国一般風ノ向キハ定リナシ 天気ハ変リ易シ 但シ雨天(うてん)勝チ」
意味はこんな内容である「全国で風の向きは一定でなく、天気は変わりやすい、雨も降り
やすい」。しかし、当時は現在のように、テレビもラジオもインターネットもない。天気予
報は、当時スタートしたばかりの警察制度によって設置された、東京の交番に掲示された。
午前6時、午後2時、午後9時の毎日3回、人々は貼り出される「天気予報」を見るため
に、交番を訪れた。

最大の課題は、情報を集めたり送ったりする通信網だった。1920年代に入ると全国にケーブル網が整備されて、気象観測ネットワークが進歩、全国各地と気象情報がやり取りできるようになった。この時の通信テストで使われた言葉・・・
「本日は晴天なり。ただ今マイクのテスト中」
例えば、運動会のマイクテストの時などに、耳にした人も多いはず。「天気予報」が発展していく道で生まれた“名文句”だろう。

CBCテレビ:画像『写真AC』より「夕焼けの空」

ラジオでの「天気予報」が始まったのが1925年(大正14年)、放送によって人々の暮らしの中に一気に定着していった。しかし、太平洋戦争が始まると、ラジオでの天気予報はストップした。天気は戦争の行方を左右する重要な軍事機密とされたためである。やがて終戦を迎えて再びラジオから天気予報が流れた時に、人々は長かった戦争が終わり、再び平和が訪れたことを実感したという。

日本における「天気予報」は、1953年(昭和28年)にテレビでの放送が始まったことで、発展の勢いが加速した。3年後には気象台が現在の「気象庁」になる。1974年には「アメダス(地域気象観測システム)」が導入されて、降水量や風速など情報量は増えた。気象衛星「ひまわり」が打ち上げられたのは1977年、空から台風の位置などを把握できるようになった。現在では、スーパーコンピューターによる分析も加わって、今後1週間どころか、1か月や3か月先の長期予報も可能になった。

最近のゲリラ豪雨など、今や「天気予報」は人々の命を守るためにも欠かせない大切な情報となった。「天気予報はじめて物語」のページには、日本の文化の歩み、その確かな1ページが刻まれている。

【東西南北論説風(309)  by CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】

※CBCラジオ『多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N』内のコーナー「北辻利寿の日本はじめて物語」(毎週水曜日)で紹介したテーマをコラムとして執筆しました。

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