やっぱり行かない!中日・ケビン・ミラー騒動とアレックス・オチョアの思い出
2003年1月31日。キャンプインを翌日に控え、中日はケビン・ミラー選手を支配下選手に登録した。しかしながら、ミラーは中日ではプレーしていない。来日することなく、契約を解除せざるを得なくなったためだ。
ゴメスに代わる四番として
本拠地をナゴヤドームに移した1997年以降、中日の四番は永らくレオ・ゴメスが務めた。1999年は36本塁打を放って優勝に貢献。2000年オフにいったん退団したが、翌シーズン途中にチームに復帰した。星野監督から山田監督に代わっても、四番はゴメスだった。
それは同時に、中日が外国人選手の獲得に苦労していたことの表れでもあった。ディンゴ(2000年)、オジー・ティモンズ、ティム・アンロー(共に2001年)、スコット・ブレット(2002年)と、次々と外国人選手を獲得したものの、期待に沿う活躍とは言えず、ゴメスが四番に座り続けることになった。そのゴメスも、36歳となった2002年限りでついに引退。中日は、四番候補となる大砲の獲得に本腰を入れた。
そこで候補に挙がったのが、日本行きを希望していたミラーだった。メジャー通算59本塁打を放ち、前年は大リーグ・マーリンズで16本塁打。打率も2年連続で3割を記録しており、31歳という年齢は最も脂の乗った時期と言える。メジャーリーガーの打棒に、ファンの期待は膨らんだ。
ミラーとの交渉は順調に行なわれ、1月11日には中日への入団が発表された。
レッドソックスが横やり
ところが、思わぬ”横やり”が入る。レッドソックスがミラーの獲得に動き出し、中日に譲渡を申し込んできたのだ。当然、中日は拒否。当初はミラー本人も中日入りの姿勢を見せていたが、次第にレッドソックス入りに傾き、予定の日に来日しないなど、雲行きが怪しくなってきた。
中日側も粘り強く交渉を続けたが、前代未聞の横取り劇は、最終的に大リーグ機構、大リーグ選手会までも巻き込んだ騒動に発展してしまった。
アレックスが代役として入団
結局、中日はミラーの獲得を断念。その代役として中日入りしたのが、アレックス・オチョアだった。ドラゴンズファンで知らない人はいないだろう。その守備力、特に肩の強さは超メジャー級だった。
開幕カードの巨人戦で、センターから何度も凄まじいバックホームを見せてファンの度肝を抜き、同時にファンの心を掴んだと言えよう。筆者もその一人。ナゴヤドームに観戦に行った6月の巨人戦。左中間の深い位置から三塁へノーバウンド送球を見せ、三塁を狙った江藤智をアウトにした。スーパープレーを目の当たりにし、子供ながらに、これがプロか、これがメジャーリーガーか、と驚嘆したものである。
打撃でも魅せた。中距離砲として、来日1年目、2年目共に打率2割9分4厘、21本塁打。1年目こそチャンスで弱い点が目立ち65打点に止まったが、翌2004年は随所で勝負強さを見せ89打点を記録し、リーグ優勝に貢献。
2004年4月7日の巨人戦での逆転サヨナラ3ラン、2005年開幕戦のサヨナラ満塁本塁打など、印象的な一発も多かった。
それぞれの舞台で活躍
ミラーの獲得はならなかったが、ナゴヤドームでの守り勝つ野球を掲げる中日には、高い守備力を持つアレックスの方が合っていたのかもしれない。
2004年には、アレックスを含めて6人がゴールデングラブ賞を獲得。英智・アレックス・福留の外野陣、荒木・井端の二遊間は、落合野球の象徴とも言える存在となった。
ミラーを逃したことで埋められなかった右の長距離砲も、2005年に横浜からタイロン・ウッズを獲得して解決。2006年のリーグ優勝、2007年の日本一へとつながった。
一方、レッドソックス入りの叶ったミラーは、2003年に25本塁打を放つと、2004年には18本塁打を放ってワールドシリーズ制覇に貢献した。
あの騒動がなければ、アレックスの強肩も、ウッズの規格外のパワーも、見られなかったかもしれない。
何が幸いするかわからないものである。今にして思えば、中日にとっても、ミラーにとっても、よい結果となっただろうか。
【CBCアナウンサー 榊原悠介
中日ドラゴンズ検定1級。日付からドラゴンズの過去の試合を割り出せる特技を持つ】