立ち上がれ京田陽太!2軍落ちしたドラゴンズ選手会長への叱咤激励
2021年セ・パ交流戦が始まってまもなく、中日ドラゴンズの背番号「1」京田陽太選手が2軍に降格した。入団5年目で初めてのことであり、選手会長という立場の中心選手だけにその意味は重い。
2軍降格前の残念な打席
ドラゴンズにとって交流戦の最初の相手は、日本一チームの福岡ソフトバンクホークスだった。その2戦目、スタメンを外れていた京田選手は7回に代打で登場したが三振。翌日の3戦目はショートの守備固めに入った後の9回に先頭打者として打席が回ってきたが、ここでもあっけなく空振り三振。京田選手の代わりにショートスタメンだった三ツ俣大樹選手がその後二死から打席に入ったが、粘りに粘って出塁をめざした。結果はライトフライだったが、同点の最終回、その時の役割をめぐる2人の遊撃手のプレーは残酷なほどの対比を見せた。翌日、京田選手は2軍に降格した。
輝いた新人時代のスピードと力強さ
京田選手がデビューした2017年シーズン、グラウンドで躍動する姿に目を見張った。
特にそのスピードである。忘れもしない横浜スタジアムでのDeNAベイスターズ戦。1番ショートでスタメン出場した京田選手は4打数4安打と大活躍だったが、特筆すべきは3ベースを打った時だった。中継に入ったセカンドの守備位置を見極めて、そのまま一気にホームインした。京田選手が持っているスピードと打撃の力強さが、見事に融合した瞬間だった。その年は、長嶋茂雄さんの新人最多安打記録(当時)に迫るシーズン149安打を記録して、見事に新人王に輝いた。ドラフト2位でドラゴンズが指名した京田選手だったが、1位で入団した讀賣ジャイアンツ吉川尚輝選手や阪神タイガース大山悠輔選手ら同じ内野手を見事にリードしての受賞に、ファンは自慢気に胸を張ったものだ。これでドラゴンズのショートは最低10年、いや15年は安泰だ、と。
ドラゴンズファンの厳しい目
輝いたルーキー年を頂点に、京田選手の成績は緩やかに下がり続けた。それでも守備の安定感は抜群で、2019年シーズンは守備率.985と高い数字でリーグトップだった。しかし“守備の勲章”であるゴールデングラブ賞はジャイアンツの坂本勇人選手に奪われた。何かが足りない。その頃からか、時おり“粗い”プレーが顔をのぞかせるようになった。ファインプレーもあるが、凡ミスもある。
多くのプロ野球ファンがそうであるように、気を抜いたプレーに対してファンは厳しい。特に本拠地・名古屋は“堅実”と言われる土地柄もあってか、長い歳月ドラゴンズを応援しているファンになればなるほど、それは顕著である。代打で登場してド派手なホームランを打つ反面、塁に出てうっかりけん制アウトになってチャンスを潰す選手などに対して、竜党はかなり厳しい。
かつて1981年に京田選手と同じショートを守っていて、フライを“ヘディング”するという伝説の珍プレーを残した宇野勝さん。ファンが懐かしがって今でも思い出を微笑ましく語るのは、宇野選手が一生懸命プレーしていたことが分かるからである。プロである以上、一瞬たりとも気を抜いた“ポカ”は許されない。
落合監督時代「放牧」の意味と意義
2軍降格について「放牧」という言葉を使ったのは、落合博満監督だった。2004年から指揮を取った8年間の特に後半、「放牧」という言葉を使って、時おり選手を2軍に送った。文字通り「放し飼い」という意味で、落合監督が意図したところは、1軍で壁に直面するなどした選手に気分転換を図らせることだった。もちろん細やかにケアをし続けて、すぐに1軍に復帰させたりもした。名手・荒木雅博選手(現1軍コーチ)ですら「放牧」対象になったことがあった。
当コラムでも度々指摘しているが、現在のドラゴンズは1、2軍の選手入れ替えが極端に少ない。ペナントレースは1軍だけで戦うものではない。2軍、そして育成選手まで含めたチーム全体で勝ち取りに行くものである。交流戦に入ってショートのスタメンで生き生きと勝利に貢献している三ツ俣選手の活躍を見るにつけ、京田選手の「放牧」はもう少し早くても良かったのではないかと思う。1軍2軍を問わず、旬の選手を常に見つめ、積極的かつ柔軟性を持って起用していくベンチ采配を切望する。
背番号「1」の先輩であり「ミスター・ドラゴンズ」と呼ばれた故・高木守道さん。2020年に逝去した際の遺影に京田選手は誓ったはずだ。
「背番号1はチームの顔。それに恥じない、責任を持ったプレーをしたい」
その言葉が1軍のダイヤモンドで再び実現する日を、今から楽しみに待っている。
【CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】