19連敗!なぜ人工芝で巨人に勝てないのか?~ドラゴンズ1970年代(続)~

19連敗!なぜ人工芝で巨人に勝てないのか?~ドラゴンズ1970年代(続)~

球団創設84年目を迎えた中日ドラゴンズの2020年シーズンは、新型コロナウイルスの影響によって開幕を迎えることができない日々が続いている。そんな球団の歴史と熱戦譜を年代別にふり返ってみた。今回は「70年代」(1970~1979年)への旅、その続編である。(敬称略)

赤ヘルに敗れて連覇ならず

ドラゴンズの70年代を語る上で、主役となるのはもちろん20年ぶりの優勝をはたした1974年シーズンなのだが、それに続く5年間はある意味で実にドラマチックだった。
優勝翌年の1975年、当然のように、ドラゴンズは連覇をめざした。連覇を表す「V2」という言葉が名古屋の街の“合い言葉”にもなっていた。宿敵ジャイアンツは、9連覇の将・川上哲治が退任して、前年に引退した長嶋茂雄が監督になっていたが低迷し最下位。ドラゴンズは夏場に2度も首位に立ったが、最終的に球団初の連覇は成らなかった。落合博満監督らがそれを成し遂げる2011年まで、実に36年も待たなければならないことになる。この年の頂点に立ったのは広島東洋カープ。「赤ヘル軍団」が歴史の一歩を力強く踏み出した。もし連覇を成し遂げていたら、レギュラーの円熟度からしてもさらなる連覇が期待され、ドラゴンズの歴史は大きく変わっていたかもしれないと思う。

人気選手トレードにファンも大揺れ

大型トレードが発表された。6年ぶりにBクラスに転落した1976年のオフ、島谷金二と稲葉光雄が阪急ブレーブスに移籍した。背番号「8」と背番号「18」の放出に、ファンの動揺も激しかった。2人とも20年ぶりリーグ優勝の立て役者であり、多くの竜党が愛していた選手だった。
この年、もうひとつトレードに関わる大きな出来事は、優勝年の新人王だった藤波行雄のトレード拒否だった。クラウンライター・ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)への移籍を通告された藤波は「ドラゴンズが好きだから」と任意引退覚悟でそれを断った。結果、藤波は出場停止などの処分と共に、背番号「3」を剥奪された。
それぞれのトレードの是非はともかく、ドラゴンズというチームが“血の入れ替え”によってチーム強化を進めようとした姿勢は強烈だった。そして、それは80年代における数々の衝撃的なトレードのまさに“序章”だった。

江川ドラフトで竜の選んだ投手

ドラフトでの新人選手獲得も劇的だった。法政大学の江川卓の進路が大きな注目を集めた1977年ドラフトで、ドラゴンズはそれまで他球団に3回指名されながらもプロ入りを拒否していた藤沢公也を敢然と指名。当時のドラフトは1位選手からクジによって指名順を決めていて、最下位の指名順だったドラゴンズは、12番目で藤沢、折り返した13番目で小松辰雄を指名した。藤沢は入団を拒否し、小松が実質的なドラフトのトップとして入団した。翌年シーズンオフに藤沢はついにドラゴンズ入りし、代名詞となった武器“パームボール”を駆使して新人王にもなったが、何とも波乱万丈なドラフトだった。しかし、“スピードガンの申し子”と呼ばれて活躍した小松に加え、スラッガー田尾安志、左腕の都裕次郎、そして頭脳派投手の牛島和彦ら80年代に向けての補強は着実に進んでいった。

人工芝19連敗の悪夢の末に

人工芝を採り入れた後楽園球場で讀賣ジャイアンツになんと19連敗するという、思い出したくもない悪夢があったのは、1976年から77年にかけてのこと。スポーツにありがちの“ジンクス”なのか、竜はまさに借りてきた猫のような試合ぶりだった。
一方で、中利夫が監督に就任した1978年には、かつて中と「1・2番コンビ」で活躍した高木守道が球団史上初の2000安打を達成した明るい話題もあった。
しかしなぜかチーム内にはけが人が続出して、レギュラー選手が満足にそろって戦うことはなかなか少ない苦闘の日々が続いた。その意味で、現役時代はスマートなプレーでファンの人気を集めていた中利夫にとっては、つらい監督時代の3年間だった。
20年ぶり優勝の余韻と次なる優勝への夢、その幻影の中で竜の日々が過ぎていった。

【CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】

※中日ドラゴンズ検定1級公式認定者の筆者が“ファン目線”で執筆するドラゴンズ論説です。著書に『愛しのドラゴンズ!ファンとして歩んだ半世紀』『竜の逆襲  愛しのドラゴンズ!2』(ともに、ゆいぽおと刊)ほか。

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