CBC web | 中部日本放送株式会社 / CBCテレビ / CBCラジオ

MENU

遺体も首もない!豊臣秀吉が執り行った織田信長の葬儀の実情

遺体も首もない!豊臣秀吉が執り行った織田信長の葬儀の実情

CBCラジオ『伝令!武将が現世でラジオを始めたようです!』は、400年の時を経て現代に蘇った名古屋にゆかりの武将たちと足軽集団・名古屋おもてなし武将隊(R)が、日本の歴史を楽しく紹介する歴史バラエティ番組です。10月17日の放送では、織田信長、徳川家康、陣笠隊の足軽・なつの3名が出演し、秀吉が執り行った信長の葬儀を取り上げました。

関連リンク

この記事をradiko(ラジコ)で聴く

織田信長の葬儀が行われた日

「この日何の日?」コーナーは、先週土曜日から今日までの1週間の日付で過去に起こった歴史上の出来事・記念日を解説。いくつかある話題の中で取り上げたのは、1582年10月15日に豊臣秀吉が織田信長の葬儀を盛大に執り行った件について。

信長は同年の6月2日に本能寺の変で斃れたことはよく知られています。その後、山崎の戦いを経て後継者として名乗りを上げたのは秀吉でした。

織田信長「なぜこんなに遅くなったかというと、恐らく秀吉たちは事態の収拾に時間を要したということでな。儂は首を取られないようにどこかに隠したということで、恐らく(小姓の)森蘭丸が気をきかせてやったんじゃないかと思うが、見事首は見つからなかった」

もちろん、本能寺が激しく燃えたこともあって遺体の判別がつかなかった等、いろいろ言われていますが、本当に首は見つかっていません。
葬儀に遺体もない、首もない。この状態で行うのは通常ではかなり無理があります。

葬儀までに時間がかかった理由

当時は「首が見つからない=まだ生きている可能性がある」ということになります。それゆえに本能寺の変を起こした明智光秀には味方するものが少なく、山崎の戦いで敗戦。
豊臣秀吉が後継者の地位を固めた上で、葬儀を行ったのです。

信長「儂は葬儀を行え、儂の後継者だとは銘打ったわけではない。でも秀吉が自ら、自らの手腕を持ってここまで辿り着いた(後継者となった)ということじゃ。
儂からしたら、あの世から『うまいことやったな』と。嬉しい事ではあるがな」

秀吉は、時間はかかりつつも自力で後継者の地位を確立し、その力を持って主君だった信長の葬儀を盛大に執り行うことで「我こそが信長様の後継者である」と世間に見せつける必要があったのです。

後継者は本来、信忠だった

ここで、なつが「信長様が生前、後継を託そうとした方は?」と質問しますが、当然ながら信長の答えは「嫡男の信忠じゃ」と断言。秀吉の予定ではありませんでした。

信長「残念ながら、本能寺の変で(別の場所に宿泊していたものの)信忠も同時に死んでしもうたからの。これで後継者があやふやになってしまった」

本能寺の変で信長の遺体は見つからなかったため、秀吉は等身大の香木像を身代わりに棺に納めて執り行われました。喪主には信長の実子で秀吉の養子だった織田秀勝を据え、秀吉は巨額の費用を投じて主君への忠義を世間にアピールしたのです。

この葬儀は、織田家の主導権を巡って柴田勝家ら他の宿老と対立していた秀吉による、高度な政治的演出。「自分が信長の後継者である」と内外に誇示する狙いがあり、勝家や他の有力な織田一族は参列しませんでした。

この葬儀を機に秀吉と勝家の対立は決定決定的なものとなり、翌年の賤ヶ岳の戦いへと繋がっていきます。

ちなみに、この高木像は2つ作られました。
秀吉は「遺骨がない葬儀は格好がつかない」と考え、高名な仏師・康清(こうせい)に命じ、信長の晩年の姿にそっくりな等身大の座像を2体作らせています。

1体目の役割は、葬儀のメインイベントで「遺体の身代わり」として火葬(荼毘)に付すため。2体目の役割は、葬儀の後も、信長の菩提寺(後の大徳寺 総見院)に本尊として永久に安置し、後世に伝えるためです。

秀吉の高度な政治的戦略が垣間見えた信長の葬儀。あの世で信長は何を思って観ていたのでしょうか。
(葉月智世)
 

この記事の画像を見る

オススメ関連コンテンツ

PAGE TOP