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僕と時々もう1人の僕 ~トゥレット症と生きる~

5月28日(日)深夜1時28分~2時24分

番組こぼれ話

【手記】「私を肯定してくれる人などいなかった」患者の会代表が綴る設立への想い

谷謙太朗 代表

チックは、実は子どもの多くが経験するごくありふれた症状です。大概の子どものチックは1年以内になくなります。そうでなかったとしても、症状の波や入れ替わりがありながらも成長と共に生活に支障のない程度に軽減または消失していきます。
しかしながら、一部の方に大人になっても継続する重度のトゥレット症の方がいます。

(※トゥレット症は突然体が動く「運動チック」と声が出てしまう「音声チック」が複雑に1年以上に渡って見られる状態です)

私はその1人でした。

私を苦しめたチックの1つが“絶叫”する音声チック、近くに居れば鼓膜を突き破るかのような大声が1分に何回も出てしまうときが…
不幸中の幸いなのか、私は短時間であれば音声チックをいくらか我慢することができました。しかし音声チックを我慢すると激しく首が動きました、ロックスターよりも激しく。

あるときは舌から血が出ているのに永遠と噛み続けなければならない症状、骨折する程胸を強く殴る症状、頭を壁に打ち付ける症状、これらも全てチックの症状です。
チックを我慢すると身体に何とも言えない強い不快感やストレスを感じます、チックをするとそれがいくらか和らぐのです。しかし直ぐにその不快感は強くなり身体や脳を襲います。
私は自分を保つためにも永遠にチックをしなければならなかったのです、休む間もなく…
3歳からチックを患っていた私は、気付けばチックがある自分が当たり前になっていましたが、とあるとき思うのです、身体や脳を襲うこのとてつもない不快感がなければどんなに世界は素晴らしいものなのかと…
唯一その不快感から開放されるときがあります、それは寝ているとき、つまり脳が休んでいるときです。でも寝てしまっているのです。
なぜ寝ているのにそれがわかるのかというと、目覚めたわずか数秒にも満たないその瞬間、不快感から解放されていることに気付くのです。人生で唯一の私が普通の人になれる苦しみから開放される一瞬です。
しかし目覚めと共に、脳が活動を始めると共に、身体を蝕む衝動と止められないチックの地獄が始まります。

当然学業はままならず、高校を卒業するのがやっと。当時は世の中にインターネットが普及する前、勿論SNSも存在せずトゥレット症などという言葉を知る由もない。
自分がいったい何者なのかもわからず社会に出た18歳の私、親から借りたお金で一人暮らしを始めるが職を転々とすることに。
別に転々としたかった訳では無い、せざるを得なかったのだ。なぜなら行く先々でチックを馬鹿にされる、私がチックを出しながらも必死に働いている後ろ姿を指差して笑っている上司がいる。

他の従業員を呼んでまで一緒に嘲笑っている。珍獣を見ているかのように無言で凝視してくる同僚。真似をされるのは当たり前。運動チックが奇妙過ぎて化け物を見たかのように悲鳴を上げ走り去る人。チックを理由に職を解雇されることもあった、できる限り迷惑にならないように我慢していたのに。
当時の私はチックを止められない自分が悪いと思っていた。
疲れ果てて一人暮らしのアパートに帰るも、そこにも私が安らげる場所はない。チックが出れば隣から壁を殴る音(うるさいの意味)、下からは棒か何かで天井を突っつく音(うるさいの意味)。
誰一人として私のチックを肯定してくれる人などいなかった。
トゥレット症の困難の一つとして、当事者の家族への負担もあげられます。

例えば同じ部屋で数秒おきに我が子が叫んでいたら?叫ぶほどではなくとも咳払いを永遠としていたら?運動チックでテーブルをドンドン叩いていたら?
病気だとわかっていても、愛している我が子であったとしても、ときに子どものチックが辛くなってしまうことも稀ではありません。
止めたくても簡単には止められないチック、やりたくないのにやらざるを得ない強い衝動に襲われてしまうチック、当事者はもちろんのこと、その家族までも苦しめてしまうことがあります。

高校を卒業してから行く先もわからず人生をただ彷徨うだけの生活、20年近く続いただろうか、私は何のために生きているのか、人生とは一体何なのか…
しかしこのままではいけないと思い、根本的治療法が存在しないことは理解していたが、改めてトゥレット症とその治療に向き合うことにした。

どれだけの先生のお力をお借りしたことだろうか、どれだけの人の支えがあっただろうか、40歳を迎えた頃に私のチックは軽快した。

完全にチックがなくなったわけではない、チックの重症度が軽減しコントロールが可能な状態になったのです。

公の前に私が出るとき、おそらく誰一人として私がトゥレット症であることに気付くことはないでしょう。
しかし今も音声チックと運動チックが併存するトゥレット症です。チックをコントロールできたとしても身体に感じる違和感不快感は存在します。
身体に感じる不快感を例えるのは難しいのですが、例えば蚊に刺されたときに感じる痒みを不快感とするならば、チックのコントロールとは、患部をかかずに痒みを我慢し平静を装い続けるようなことです。

痒みが強ければ強いほどコントロールは難しくなります。今の私はその痒みが軽減されている状態です。1人のときやチックを出しても問題のない状況ではチックを出したりもします。

未だ謎の多いこのトゥレット症・チック症で苦しんでいる方は、全国にごまんとおられるはずです。

私は、今ももがき苦しんでいるであろう孤独に戦う当事者、チックのある子供たち、そして当事者を支える家族、トゥレット症・チック症で悩む全ての方に同様の思いをしてほしくない、自分の経験が誰かの役に少しでもなったらとトゥレット当事者会を立ち上げました。
トゥレット当事者会の目的は、当事者・家族のQOLの向上、そして当事者の自立支援です。

自立というのは、単に働いて収入を得るということだけではありません。トゥレット症であってもそれを障害とせず、当事者が望む人生を生きるためにチャレンジすることができる、人生に夢や希望、生きる意味を持つということです。
そのために先ずは、社会にトゥレット症を認知していただくこと、そして少しでも理解していただくことが必要です。

しかし、社会を変化させることは当然簡単ではありません。私達当事者も変わる必要があるかもしれません。

一人一人が身近な人にチックを説明することができたとしたらどうでしょう、きっとどんなメディアよりも持続する大きな力になると私は思います。

もちろん全ての方ができるとは限りません、個々に様々な事情を抱えておられると思います。
自立支援と言っても決して簡単なことではありません、私自身何十年もの年月を費やし、『トゥレット当事者会』という私の人生の意味を見つけました。
現在私は、より多くの方を支援するため大学で学んでいます。そして、トゥレット症の研究が進んでいる海外専門機関での講習を受け支援活動を行っています。
アメリカではトゥレット症に対して次のような言葉があります。
「I have tourette's but tourette's dosen't have me.」
私はこれを以下のように解釈しています。
「私はトゥレット症を患っていますが、トゥレット症に支配されてはいません。仮にコントロールの難しいチックがあったとしても、トゥレット症は私の全てではなくあくまでも一部、人生までをトゥレット症に支配される訳ではない。
トゥレット症であっても私達はできる、自信を持って人生を歩んでいただきたい。
全てのトゥレット症・チック症当事者が輝ける社会を目指して…
トゥレット当事者会代表 谷 謙太朗


【手記】『トゥレット症の息子を持って』
酒井さんの父が綴る"子育て"

酒井富志也

この度はこのような機会を頂き、本当に感謝しております。中々トゥレットの子を持つ父親の方の取材が出来ないとの声を聞いて、この機会に率直にお話をさせて頂きます。

息子がトゥレットを発症した当時、私は仕事も充実しており、それこそ24時間働けます!の企業戦士でした。どんどんと忙しくなり、ほぼ家のことは家内に任せて海外を飛び回る日々。

家内が病院で息子の相談をしても全く相手にされなかった事も、どれほどの事がこれから待ち受けているのかについても、全く想像もしていませんでした。そんな中でどんどんと酷くなる息子の症状。

私自身の人生において大きな転機となる人たちとの出会いをもたらしてくれたのは、他でも無いこのどうしようもなくひどい症状でした。

私が途方に暮れるほどの症状でしたが、客観的且つ的確に、また親身になって相談に乗ってくださる方々と触れ合う度に、その方々の信念や力強い生き方を感じ、こう言う生き方もあるんだと、気付かされました。

何よりひどい症状の息子本人がテレビの取材で"こんな生き方が有るんだ!と、同じ病気で苦しむ人の背中を押してあげたい"と言うメッセージに親ながら共感し、共にこの思いを成就したいと強く思うようになりました。

そう思えるようになってからは、息子の成長と共に自分も成長しているんだと実感しています。トゥレットで苦しんでおられる方々の少しでも役に立てるのであれば、取材も喜んでお受けしますし、色んな勉強もします。それによって新たな方々との出会いにもつながり、また成長へとつながって行きます。

息子のトゥレットが私自身の人生を豊かな物にしてくれているんだと思えればこそ色んな活動にも参加しますし、取材にも応える事が出来ます。逆に社会がトゥレットはその人の個性、と受け入れてくれる時が来たならば、この事に気付かせてくれた息子に親としての務めを果たせる事になるのだろうと思っています。

トゥレットのお子さんのお父さん、お子さんと向き合う事でご自身にもきっと素晴らしい毎日が待っています。お子さんはあなたの理解と愛情があればきっと素晴らしい人生を歩む事が出来ます。是非皆で一緒に歩いて行きましょう!

それを決めるボールはお父さんの手の中に有るのですから。


【手記】「あの人に関わっちゃ行けないよ」と言われ…
僕は"変な人"ではありません(あべ松怜音)

皆さんは生きていてどうしようもない悔しさを感じる瞬間はありますか?

僕はトゥレット症。他の人とは少し違った個性をもって生まれました。
「あの人に関わっちゃいけないよ」「目を合わせちゃダメ」「あ、ヤバいやつきた」
そんな声が街を歩けば聞こえてくる。僕の中の「もう1人の僕」が僕を押しのけて出てきます。そんなとき僕はイヤホンをつけて自分の世界に入り込むのです。外部の音をなるべく聞かなくてすむように。
心の中ではいつも「俺ってそんな悪いやつじゃないのになぁ」ってつぶやいてます。それが僕の日常です。
僕は鹿児島県で生まれ育ち小学校2年生でトゥレット症を発症しました。数年間は抑えられない自分のおかしな癖を病気とは認識できていませんでした。
父親とはじめて病院にいってトゥレット症と診断された日のことはいまだに忘れられません。子どもながらに簡単な病気ではないことはなんとなく理解していました。
初対面の人に罵られたり、真似をされることは日常茶飯事。なんとかポジティブに生きようと毎日必死でした。
知ってほしい。
ただそれだけでいい。
介助も保護もいらない。
それだけで横並びのスタートラインに立てる。
人は未知のものに対して臆病になる生き物です。知らないことは怖いし、理解できない。伝える手段が欲しかった。だから僕はトゥレット症を伝えるひとりのロールモデルになりたいと思いました。
取材を受けた理由はまず「自分が楽になりたかったから」です。同じ病気の人に勇気を与えたいなんて思うきっかけもなかったし、そこまでの余裕はありませんでした。
知ってもらうか、病気を治すしか世の中に紛れて生きていく未来が見えなかった。ならば、知ってもらいたいと思いました。
誹謗中傷もたくさんありますが、世間は思っていたより温かかったです。動き出してから目に見えて身の回りの反応が変わりました。
病気の説明をすると「知っているから気にしないで」って言ってくださる方が増えました。なんか正式に社会に認められたような気分。改めて生きてきて良かったなと強く思えました。
病気を隠さなくていい社会がもうすぐそこに待っている気がします。
「この世に生まれ落ちたときから皆それぞれに役割がある」
これが僕の心の中での支えであり生き方のテーマです。この病気を持って生まれたことで自分にはなにができるのか。
神様がふざけて作ったような病気だけれど意外に向き合ってみるとできることはいっぱいある。

結構それはそれで楽しいかな?って思えるようになりました。
この気持ちはきっと同じ病で悩める仲間にも伝わるはず。
僕が幼少期から過ごしてきた経験が少しでも世の中の役にたっていることが嬉しいです。僕は子どものうちからさまざまな病気に対する知識をつけていくのは大切なことだと思っています。
別に浅い知識でも構いません。小学校でトゥレット症の授業をやった際に子どもたちは目をキラキラさせながら一生懸命知らないことを理解しようとしてくれました。「病気のお兄さん」ではなくひとりの人間として接してくれました。

だから僕も真剣に向き合いました。
人を傷つけることはすごく簡単です。理解し包み込むことのほうがずっと難しいんです。色々な個性が交わり合う社会において、少しでも愛のある生き方ができる人間に育ってくれると嬉しいと思っています。
マイノリティが勇気を出して社会に発信できるというのはとても平和なことです。
そして自分のコンプレックスを武器にできる人が増えたらもっと素敵な社会になると思っています。
最後に、僕には夢があります。
トゥレット症の人もそうですが、普通の飲食店で食事をすることが難しい人が世の中にはいらっしゃいます。
僕はそういう人達が人目を気にせず好きなだけ騒げる飲食店が作りたいと思っています。
お店のルールはひとつだけ。「人を傷つけないこと」
それ以外はなんの制約もありません。たくさんの笑顔が見られることを目標に夢へ向かって頑張ります。

これからの人生が楽しみです。

(2023年6月9日 あべ松怜音)


【手記】「穏やかな生活を手に入れたい」
酒井隆成さんの夢

僕には大きな夢があります。1つ目は、穏やかな生活を手に入れることです。

皆さんは穏やかな生活と聞いて何を思い浮かべるでしょうか?

のどかな自然に囲まれた生活や、昼下がりのティータイムを優雅に過ごす日常とかでしょうか?

どちらも魅力的で素晴らしいと思いますが、僕にとってのそれは違います。
僕にとっての穏やかな生活とは、声をあげても、変な体の動きをしても迷惑にならない、お叱りを受けない、誰のことも気にならない、そんな生活なのです。
トゥレット症には、チックと呼ばれる症状があります。チックは大きく分けて2つに分類され、勝手に声が出たり喋ってしまう「音声チック」と、首を振ったり、体が勝手に動いてしまう「運動チック」があります。

僕はこれらの症状によって、意識がある間は常に大きな声で叫び、体を動かし続けるという日々です。

例えるなら、カラオケで熱唱しながら筋トレをし続けるような生活だとお考えください。

残念なことにトゥレット症に効果的な薬や治療法はなく、詳しい原因も未だ解明されていません。
大きい声を出して近所迷惑だと苦情がきますし、体を動かしながら電車に乗れば周りから避けられます。症状がひどい時には絡まれることもあります。

最近も市役所に行った際、あるおじいさんに怒鳴られました。現状、穏やかとは程遠い生活です。
僕が求めているものは、そんなに特別なものではありません。ただ、健常者の人と同じように社会に参加し、電車やバスに乗って好きなところに出かけたり、カフェでお茶したり、家族と一緒に暮らしたりということを悩まずにやってみたいのです。しかし、そう簡単にはいきません。
同じトゥレット症の人たちの中には、周囲とのトラブルがトラウマとなって、電車やバスには乗れなかったり、就職先が見つからなかったり、住むところが見つからないという経験をしたことがある人も。

大事な家族とひとつ屋根の下で生活することだって難しい人たちもいっぱいいます。

僕も正直、辛いです。体は痛いし、喉も枯れたまま。周りに『迷惑だ』と言われることもあるので、『辛い』と素直に口にするのも難しい。迷惑をかけている自覚もあるので申し訳ない気持ちもあります。

それでも、電車に乗ってどこにでも気兼ねなく出かけ買い物をしたいし、旅行にだって行きたいし、カフェでパンケーキを食べてもみたい。好きな人と一緒にいたいし、生活だってしたい。そんなに特別なことでしょうか?

多くの仲間に支えられて病気の認知度はこのところ大幅に上がりました。最近では『外に出られるようになった』という当事者も増えています。嬉しいことです。しかし、まだまだ僕の目指す『穏やかな生活』を送るまでには至っていません。
電車に乗れば一駅ごとに避けられ、道を歩けば子どもに真似され、ファミレスではおじいさんに怒鳴られる。そんな日常が続いています。僕たち当事者は、真に社会の一部として認識されることを強く願っています。世の中に当たり前に存在する1人として加わりたいのです。
時折、『話してみれば普通の人だね』と言われることがあります。それ自体はとても嬉しいことで感謝しかないのですが、たまにこうも考えてしまいます。
話さなければ一生怖い人、変な人、おかしい人ですか?病気があること以外はなにも変わりはしないのに…。
これから先、僕たちトゥレット当事者が社会に受け入れられるためには今まで以上に外に出て多くの人と関わるべきで、大変なこともたくさんあると思います。しかし、その先には、電車で隣に人が座り、道行く子どもたちと笑顔で挨拶を交わしたり、きっと今よりも穏やかな生活がある。そう信じています。
この文章を読んで、少しでもトゥレット症やチックのことを知ってもらえたなら、これほど嬉しいことはありません。

街中で、声を出している人や、体が動いてる人がいたときに、(もしかしたらトゥレット症なのかな?)と考えてくれる人が1人でも増えてくれることを願っています。
最後に、僕にはもう1つ大きな夢があります。
猫を飼うことです。
僕は大の猫好きなのですが、猫は僕が突然出してしまう声や音を聞く度に敵だと思い、威嚇してきます。
猫を飼ってみたい、、、。

(2023年6月9日 酒井隆成)


CBCラジオ「石塚元章 ニュースマン!!」に出演

トゥレット症は意思に反して、大きな声が出たり、体が勝手に動いてしまったりする病気で、確固たる治療法がありません。

(栁瀬晴貴記者)
私は愛知県警の担当記者だった時に、「夜回り」と呼ばれる仕事を終えて帰宅し、疲れ果てて、UberEats(ウーバーイーツ)をいつも通り頼みました。

その時に普段、配達員からメッセージが届くことはないんですけれども、ピロリンと鳴って、「体の動きだったり、声が出てしまうが許してほしいです。許していただけると嬉しいです」というメッセージが配達員から届きました。

そこでGoogleで調べてみると、どうやら「トゥレット症」という病気で、あっそうなんだって知ったところで、実際に彼が来ました。部屋の中にいても、同じ階に到着したなっていうのがわかったんですよね。

大きな声で「あいよ」というような威勢の良い掛け声のようなものが聞こえてきて。正直ちょっとびっくりしました。

当時は「置き配」と呼ばれて直接接触がない配達方法だったんですが、家の扉の前に近づいてくるのははっきりわかりました。
その時は、本人と対面してないんですけれども、その後またやり取りをして、去年夏に取材をスタートしました。

彼に出会う前は町で声を上げる人を見ると、ちょっと正直変な人だなとか、近づくと危ないかもなって、どこか遠ざけていましたが、それが病気だとわかって、これってちょっと自分の反省の意味も込めて、世の中に、自分が知らないことを知ってもらえたらいいなという思いで、取材をスタートしました。

取材させていただいたREONさん(棈松怜音さん)も、たまたま鹿児島出身で(私の出身地の福岡と)同じ九州だっていうところで、少し意気投合しました。

さらに、大園プロデューサーも鹿児島出身で、REONさんと同じ中学校に通っていたということもわかって。

(大園康志プロデューサー)
本人の意識に関わらず、声が出ちゃうんですね。彼は15秒に1回ですかね。私も初めて会ったときに、「…死ねよ」っていう言葉を言われるわけですよ。

いきなりね。「えっ?」て衝撃を受けますよね。

でも彼は僕に本当に死んでほしいと思っているわけではないので、それを理解してだんだんと喋っている間に、こちらも気にならなくなる。

だけど、ファーストコンタクトだと驚くだろうなっていうのは感じますよね。

声のボリュームも全然調整が利かない。かなりいい声なんですよ。ちょっと離れてても、普段喋ってる声よりちょっとトーンが低くて通る声。

「あいよ」「やばいよ」とかいう声が二重に、本当に違う人格が現れてくるような感じで、こちらには迫ってくるものがあって、ドキッとしますよね。最初はですね。

(栁瀬晴貴記者)
トゥレット症の彼らにとって、常に声が出てしまって静かな空間や人混みがとても苦手なんですよね。なのでレストランだったり、それから図書館や映画館も苦手だったりするんですよね。それでなかなか行けていない人が多い。

(大園康志プロデューサー)
大変なのは飛行機とか。地下鉄とか。逃げ場がないですからね。栁瀬記者は(棈松さんの郷里の)鹿児島まで一緒に飛行機に乗って取材に行ってるんです。

(栁瀬記者)
もうびっくりでしたね。やっぱり出しちゃいけないと思うと、なおさら出ちゃうみたいで。緊張すると。

なので飛行機も、もうフードをかぶって、口を押さえながら、声が出ちゃうと「ごめんなさい」っていうふうに前の席の人に謝るんですね、周りにも。もちろん乗る前も、乗った後も。

飛行機が飛び立つ前に「周りのお客さんに、すいません、僕こういう病気なんで、うるさくしちゃうかもしれないですけれども、ごめんなさい」って毎回説明しているんですよ。

ずっと謝っていらっしゃいます。ごめんなさいって。本人は悪くないんだけど。

(大園康志プロデューサー)
トゥレット症の患者さんは人口1000人あたり3人から8人いると推定されていて、見つかったのは138年前にフランスの医師のジル・ド・ラ・トゥレットっていう神経医が報告していて、トゥレット症はそのお医者さんの名前を取っているわけです。

だけど治療法は本当にわからず、マウスピースを装着する人がいたり、それが電極を脳に埋め込んで電気信号を送って押さえてみるとか、いろんなことを皆さんやってらっしゃるようなんですけど、決定的な方法が見つからない。

栁瀬記者も東大病院の金生由紀子医師という第一人者にも当たってくれてはいるんですけども、原因はなかなかわからない。

(栁瀬晴貴記者)
実はトゥレット症患者の、夜寝ている際の映像は、これまで研究が進んでいなくて、今回、神奈川県の患者と一晩一緒に過ごしました。

寝ている時、赤外線カメラを自分で手に持って構えていると、本当にもう2秒に1回と言っていいほど、症状が出てくるシーンで寝られないんですよね。夜中も。

これが今までやっぱりわかってこなかったみたいで。何となくトゥレット症患者は、昼間疲れているとは言われてきたんですが、もしかすると先生いわく、こういった夜中に寝られないということも関係してくるのではないかと分析されていました。

トゥレット症患者が寝ているときにどういう状況かという資料は、これまでなかった。

(大園プロデューサー)
午後11時ぐらいにベッドに入って、結局就寝したなっていうのが、午前7時ぐらい。午後11時から午前7時までは奇声を上げたりベッドの中で自分の体を叩いたり、殴ったり。寝るときは手を握りしめて寝るんですよね、自分を殴ってしまう。それで起きてしまうからっていう理由で。

右手と左手を、お祈りするような形で胸の上に置いて。

それで寝てるのか寝てないのかよくわかりませんけれども、動かないようにして体をよこたえているというのが続く。

寝られる日もあれば寝られない日もあるんで、非常に体調的にも整わないんだろうなというのは想像できますね。

(栁瀬記者)
なのでやっぱり、神奈川まで取材に行ったときも、「ごめんなさい、やっぱり今日はちょっと寝られてないんで、取材難しいです」って言われる機会も何度かあって。あと「午後からでいいですか」みたいな形で。

僕らももちろん体調が一番なので、わかりましたということで、ちょっと取材を遅らせることもありました。

普段、体が働くことの大変さ以上に、まずは生きることそのものが、眠ることそのものができない、っていう大変さがあるんですね。

だからやっぱり患者の多くは、家から出られないっていう人が多くて、一歩外に出ると、変な人だと言われて、後ろ指をさされることも多くて。なかなか生き辛いい、理解されにくい病気なんだなっていうところを感じています。
Q.今回栁瀬記者が取材をお願いした方たちはそういう中でも一生懸命外へ出て、普通の人たちと一緒になんていうのも関係を持ちながら、何とかわかってもらってという人たちが多い。

(大園康志プロデューサー)
そうですね。「閉じこもっていては駄目だよね」っていう「前向きに行かなきゃね、社会に飛び込んでいかないといけないね」っていうことは皆さんは思ってらっしゃる。それができる方とできない方があって、そこに難しさがあるよね、と当事者の皆さんはおっしゃってましたね。

栁瀬記者が今回取り上げてはいないんですけれども、知り合った方の中には、北海道の山奥で暮らしてらっしゃる女性もいらっしゃいます。

長く一緒にいるといろんな声を、棈松さんの場合は「あいよ」「死ねよ」とか「やばいよ」とかいろんなパターンで出てくるんですけど、そういう人だと思ってずっと喋ってると、それを僕の耳の中でも除外して会話ができるようになっていくっていうのに気がつきましたね。

だんだんその周りがわかってくるので気にならないなっていう。

(栁瀬晴貴記者)
なのでやっぱり彼らと接していると、本当に声が出たり体が動く以外は、本当に僕と同じ人間だなというところです。ただそれがあるだけで誤解されちゃう、苦しい思いをしてるというか。

(大園プロデューサー)
栁瀬記者自身は取材の中で実はじっとしてない人なんです。本当にそれは止まれないぐらい、つまり活動的によく働く。

家の中でも歩いてますって言うんですよね。番組を作るにあたっては家の中でメモを書いて、付箋に書いてぐるぐる回ってるっていうような。でも栁瀬記者のこういうところがネタをキャッチする力になっていて、これを止めてしまうと栁瀬じゃなくなってしまうという…番組の編集中も突如姿を消す(笑)。

(栁瀬記者)
この番組で一番伝えたいところっていうのは、「やっぱり人って見た一瞬だけじゃ判断できないよね」「人は見た目じゃ判断できないよね」っていうところが僕の中で、トゥレット症だけに限らずあって。

この僕が今目で見ている、その視界で見ているその人っていうのは、その人の一部であって全てじゃないなっていうことを感じました。

(2023年5月27日)


まさかこんなところで…

プロデューサー 大園康志

「棈松」という名前の人に出会ったのは、何年ぶりだろうか。この2文字を正しく読める人がどれほど世にいらっしゃることか。実家の近所に「棈松さん」が住んでいらっしゃったので、たまたま読める。実家は九州・鹿児島市。気が付けば、進学で実家を離れ京都→名古屋と移り住み、この番組の制作中に丁度40年になった。今でも鹿児島空港を離陸した飛行機の中から眼下に広がっていた40年前の風景は思い出される。17歳の自分はその先どうなるかも思い描けないまま感傷に浸っていた。故郷のシンボル「桜島」に見送られながら…。
卒業した中学も高校も校歌の中に「桜島」のことが織り込まれていた。調べたわけではないが、桜島が見える鹿児島の学校のほとんどの校歌がそうだと思われる。42年前に卒業した中学の校歌の1番の歌詞はこうだ。

♪「けむりを空に噴き上げて いのちを燃やす桜島 ああその雄姿のぞみつつ 自ら学び励むもの 中学われらに力あり (高城俊男 作詞)」

そんな母校の校歌を思い出す出来事が2023年の冬に。CBCテレビ報道部の柳瀬晴貴記者が取材を続けてきた一人の男性を紹介された日のことだった。男性は28歳。名古屋で配達の仕事をしていた。約束した店の近くで彼の到着を待っていると、片側3車線の道の向こうから「あっ、あっ!」「あっ、あっ!」と連続して響いてくる大きな声が。姿は見えないが。すると「遅くなりました・・こんばんは!」。目の前に現れた男性の名前は「棈松」。柳瀬記者の取材映像でそれまで見せてもらっていた人だ。トゥレット症と闘う棈松怜音(あべまつれおん)さん。息子と言ってもいいほど年齢が離れている彼との会話で、はじめ衝撃を受けた。彼の中にいる「もう一人の彼」が時々、現れてくるからだ。合いの手をいれるかのごとく、短く「あいよ」「やばいよ」「うるせ~よ」などなど。まじめな話をしている中で「うるせ~よ」は面喰った。それまで見た映像で理解はしていたがショック。でも、そんな「もう一人の棈松さん」の会話のリズムを理解すると、全く気にならなくなった。
「街で突然声をあげる人いますよね…」と柳瀬記者の取材をきっかけに私の周りではよく話題にするようになっていたが、私自身は「街で突然声をあげる人」を目の前にしたことはなかった。その多くの人がチックの症状でそうなっていたのだと思われるのだが、棈松さんがはじめて面と向かって話をするトゥレット症の人だった。この日会う前に柳瀬記者に聞いていたのは「鹿児島市の中学を卒業したとおっしゃってました」ということだった。食事しながら聞いてみた。「中学の校歌をいま思い出せますか?」すると、「独特のメロディーでしたよね」と。スマホで歌詞がどうだったか調べてくれた。「じゃあ・・」ということで口ずさんでもらった。

♪「けむりを空に噴き上げて いのちを燃やす桜島…」

卒業して42年。名古屋で初めて母校の中学の校歌を合唱できた夜だった。


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