episode 7
ジャングルから生還
~28年の呪縛と闘い続けた残留日本兵・横井庄一さんのカルテ

1972年2月2日にグアム島のジャングルから帰国。その足で国立東京第一病院に入院した横井庄一さん。帰国の興奮冷めやらず、なかなか落ちつくことが出来ず、社会復帰をサポートする医師団は、その心と体の回復がどうなるのか心配し続けた84日間だったようだ。
妻・美保子さん(94)のご協力で今回開示された当時の200枚余りにわたるカルテに記載されていたのは、横井さんの体のデータだけではなかった。
入院して4日が経過した1972年2月6日のカルテを始めとして、以下、血眼になって横井さんを調べつくした医師団が記した文章を一部抜粋する。読み進めていくと、ジャングル28年の呪縛がなかなかとけない恐ろしさを感じた。

今回も、カルテを読み進めていく中で、平和であることがいかに素晴らしいことなのかということを少しでも感じて頂ければ幸い。
カルテ文中より抜粋
2月6日
この病院に入ってから何も夢を見ないという。ナースと話していて眠くなると寝て、2時間ほどして眠り、さめてまた眠いと言われるというと午後7時。37度。パルス90。
夕刻の散歩はやめるように言ったが歩きたいとのことで、7時から45分まで廊下へ出、グアム島の話から身の上話、敗戦のこと、天皇のことが印刷に出ている話になり、声を大きくし止まるところを知らず、制止して部屋に7時45分に帰ってきた。
「眠らぬと心配だ」と言うと、「眠らなくても死なぬ」と言う。部屋にいる限り話し続ける。それでセルシン10ミリグラムを午後8時30分 服用して頂く。
2月8日
午前9時。ロビーに出てはしゃぎ、肩に手をかけ婦長にだきつき握手。動きが素早いのが特に目立つ。冗談気味。こういう興奮期をへて皆川氏の例のようにしゃべらぬ時期が来るかと思われる。
午後2時半から3時45分まで写真室で写真を撮る。従順に応じる。(歯の撮影を忘れた)精神科の処置には特にお話がなかった。
夕5時、はじめての10分間の入浴。その前に疲れたと言っていた由。午後8時半、セルシン10ミリグラム頓用の指示をする。
*セルシン=抗不安薬
*皆川氏=横井さんより以前にグアムで見つかった残留日本兵・皆川文蔵さんのこと
困ることは? 「帰るところがない、身寄りがない、女」

カルテ文中より抜粋
2月9日
昨朝ほどでないが調子づきやすい。一人しゃべり続けるといった起居に際し、体がふらつきやすい。
きょう届いた手紙・葉書の整理に全く心を奪われている風で、問診らしき体制に入れられぬ。まず切り出したことは「弱ってしまったですよ・・・」
嫁さんの世話や写真が来ていることである。
その写真を見せると言い、容易に見つからぬが、いつまでも探し続け他室にまで出かけていく。立つときかなりよろける。(これはグアムにいるときからだと聞くと言う)
新たに開封した手紙からまた婦人の写真が出る。すぐ見ようとしない。
婦長が手紙を読み、石田が見ないか勧めると、ややあって一寸見て、この時はてれくさそうな笑顔が出る。
4通も嫁の世話の手紙が来たと言う。
次に反応した手紙は、皆川氏の帰国時の話をのせた新聞の切り抜きを送ってきたものに対して。グアムで今回受けた皆川氏の印象を繰り返し述べる。
*グアム島で横井さんが収容された病院を皆川さんは見舞いで訪れていた。
時の見当識があやしい。昨夕の入浴を、今朝したのかと言う。昨日と今朝と2回入ったのか?と聞くと昨日は入らぬ。今朝入ったと疑念なく言いきる。
今日の年月日は2月の…8日と言い、9日だと正すと、2月2日に来てあまり日にちは数えていなかったと言う。
最も困ることは?
「帰るところがないこと。身寄りがない。女(嫁のこと)」「どこで暮らしてもいい」と。
希望?
「それは許されれば天皇陛下に靖国神社に…を繰り返す。」
それ以外につまらぬことでも希望は?
「ない」
退屈は?
「ない」
自由に歩きたくないか?
「それは歩きたい。病院の中も歩きたい。看護婦についてもらって…」
他に希望は?
「ない」
以上の問答の間もたくさんの手紙を開けては傍らに置く。(婦長が整理する)ほとんど自分で読んでいない。婦長が読んで聞かせても、ちゃんと聞いている様子は見られぬ。
手紙の整理の仕方。開け方もきちんとは決してしてない。周到な(整理で)注意は払われていない。
何か部分的、自分だけで関心を示し反応はするが、以外に他の大部分に無関心。というより知覚されてない箇所が多いようにうかがえる。本人なりの一人のみこみの一方通行の接触の感が続く。
ここまでカルテを見た中で思うことは、横井さんの元にはいわゆる“見合い写真”がいくつも届いていたということに驚く。
横井さんは、帰国してから84日間の入院、そして名古屋への帰郷となっていくわけだが、横井さんのそばにはいつも国立東京第一病院の看護師の女性がサポートしていた映像が私たちCBCの記録映像には映っている。
横井さんはジャングルで女性のことを頭に浮かべて(自分の人生はなんなんだ!)と、悲観したことはなかったようであるが、捕まった後で横井さんのサポートをしてくれていた看護師には心を許していったようだ。56歳。人のぬくもりを母親以外で初めて感じたのではなかろうかと思われる。

この開示されたカルテは、横井さんの一挙手一投足を細かく記している。入院当初から横井さんは睡眠をとることがままならず、病院から安定剤を大量に処方されていた。少しでも寝てもらうというのが医師団の強い思いだった。
そして、すでに少々説明した“皆川氏”とは、新潟県出身の残留日本兵だった皆川文蔵さんのことであるが、皆川さんは、1944年から1960年までグアム島のジャングルで暮らし、島民に捕らえられた。
帰国は横井さんより12年も前。陸軍の歩兵第18連隊所属だったので、横井さんと同じ部隊でともに戦っていた戦友である。皆川さんは39歳での帰国だった。
横井さん帰国までには、日本では皆川さんらの発見が「日本兵がまだ生きていた!」というニュースとして大きな驚きを伴って伝えられてはいたのだが、横井さんは皆川さんよりさらに潜伏し続け、皆川さん発見から12年後に捕らえられたのである。
1972年1月24日。横井さんの発見によって、あらためて皆川文蔵さんもマスコミに引っ張り出されることとなった。
時を経て残留日本兵2人を対面させたのは読売新聞

読売新聞の元記者 谷川俊さん(85)によると、読売新聞は横井さん発見の知らせを聞き、同じ歩兵第18連隊の皆川さんを日本から連れて現地入りした。
どこの新聞・メディアにも知られないようにして2人をグアムで対面させたと谷川さんは話してくれた。
横井さんは突然の戦友の出現に大変驚くとともに、複雑な心境でそのサプライズを受け止めたようだ。
また、皆川さんとグアムの病院で交わしたことで心がかき乱されたようで、グアムで別れた後、帰国して国立東京第一病院に入院すると、皆川さんに対しての印象を繰り返し周りに語っていたようだ。
細かい2人のやりとりについて記すことは避けるが、面会した皆川さんのコメントなどが書かれた新聞の切り抜きを病院内で見ることとなった横井さんからは、笑顔は消えていったようだ。
敗戦の中でそれぞれの兵士が極限状態の中で選ばざるを得なかった運命に対して、互いに言いたいことはあってしかりか…。
また、戦友・上官たちの中には自ら降伏して捕虜になった人もいた。そのことに対して、横井さんは「無性に腹が立った」と後に激しい口調で語っている。
帰国後、落ち着いてくると「私はただかくれんぼが上手だっただけ」と謙遜するが、軍隊教育を忠実に守り(捕虜にならないよう絶対に降伏しない)という芯を通した生き方が、28年も文明から閉ざされる悲劇を生んだことは明らかだ。
ウニと戦争…。横井さんはどんな気持ちだったのだろう?

横井さんは退院後、ゆっくりゆっくり時を重ねていきながら、平和の尊さを訴えつづけた。82歳で生涯を閉じたが、ジャングルから文明社会に突然連れ戻された当時は、疲れ切った肉体を支える健全なる精神が宿るまで、相当時間がかかったことがカルテからは見て取れる。カルテを見るにつけ胸がしめつけられる。
この文章を書いている間、テレビからロシアの砲撃がウクライナのテレビ塔に命中というニュースが・・・。
この戦争に勝とうが負けようが、両国の市民らに明るい未来は簡単には描けないだろう。過去の教訓を生かせないのも人間の愚かさ。なぜ、傷つけあう必要があるのか…プーチン大統領への非難は日に日に大きくなっている。
家の近所のすし店からはロシア産のウニが間もなく消えるかもという声も聞こえてきた。近いうちにイクラもカニもそうなるだろうという。全くこれまで想像もしたことがなかったことが今、おきている。ウニのないすし店。たがが外れると地獄へ一直線…なのだろう。
横井さんが故郷・名古屋に帰ってきた日は、1972年4月25日。
間もなくちょうど50年となる。
CBCテレビ 報道部 大園康志