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episode 6

カルテに真実…残留日本兵・横井庄一さんのジャングル生活28年が終わった瞬間

横井庄一さんと発見者2人~1972年1月25日 グアム・知事公邸

1972年1月24日にグアム島のタロフォフォ村のジャングルで、現地の島民と出くわし、捕らえられた残留日本兵の横井庄一さん。当時56歳。“ジャングル生活28年の終焉”の瞬間を現地の人たちはどう伝えていたのか?

横井さん確保の知らせを受けた日本側には元陸軍病院の国立東京第一病院の医療スタッフもいた。すぐにグアム島で横井さんが収容された先の「グアムメモリアル病院」に入り、彼の身体状況を含め様々な申し送り事項を医療関係者たちから引き継いだようである。その後、横井さんが帰国してすぐに入院することになった国立東京第一病院のカルテにはそれがわかる記載があったのだ。

妻・美保子さん(94)の了解を得てカルテ開示の手続きをした結果、その中には、今まで横井さんの口からは伝えられていなかったこと。そして、今まで伝えられていたこととは違う表現も確認できた。

横井さんの帰国会見 1972年2月2日

横井さんは帰国後に俗世間の様々な言葉に翻弄され口をつぐんでいくことになったのだが、そうなる前、遠慮なくしゃべっていた84日間の国立東京第一病院の入院生活があったのだ。包み隠さず思いのまま話していたと思われる。入院直前の帰国会見でもグアムで何が起きていたかを映画や本などで伝えていきたいと熱く語っていた。

横井さんが帰国後すぐに入院した病院に保管されていたカルテ

では本題に戻る。横井さんが太平洋戦争の終結を知らされないまま逃げ続けていたグアム島のジャングルで、ついに発見…その時の状況をグアム側は日本側にどう伝えていたのか?私たちが開示手続きをしたカルテの中の文字を確認して頂きたい…。

横井さんを発見したグアムの現地人はこう話していた!

カルテ文中より抜粋

1月24日 横井氏が発見された時の状況(現地人2人の話)
村には山によく入って分からなくなる子どもがいるので、この日も2人で山に登り下を見下ろしていた。日没後の黄昏時で午後6時半頃であった。視界は300feetまたはそれ以上によく見えた。山で見ていると下に人が見えていたので子どもだと思って一人が下に下り行った。約5mくらいまで近づいた時に日本人であることが分かった。えび獲りの篭をたてに担いで下を見ながら真っすぐに歩いてきた。

えび獲りの仕掛け 名古屋市博物館所蔵

日本人だと気付いたので、すぐ山の上に残っている他の一人に合図し、下りてくるように呼んだ。約3mくらいに近づいた時に彼も我々に気づいた。私は少し後ずさりしたが、彼はまっすぐに歩いてきて私の左上腕をつかんだ。

右手に持った銃を取りにきたので、銃を持った右腕を右後ろにのばして届かないようにするとともに、左手で彼を払いのけた。

横井氏は顔の右側をなでられたと言う。そしたらかついでいた篭を降ろし、膝間づいて両手を合わせておがんだ。彼が弱っていることはよくわかった。そこで彼の体を調べたが刃物も何も持っていないことがわかった。「食べ物があるか」と彼が聞いたので「ある」と言ったら歩いた。

横井さん発見者の2人

彼の両手をしばって歩いた。現地人の一人は日本語が少しわかる人である。彼の声は弱いがしわがれていることはない。この時点では真っ暗ではなかった。(横井氏は暗かったと言う。また現地人にぶつかるまで暗くて分からなかったと言った。)

現場から農業の作業小屋までは2mileあまりある。山道で細い道であり、また暗かったのでゆっくり歩いた。つまづいて倒れたこともあるが、彼は自分で起き立った。手伝おうとしたが「自分で大丈夫だ」と言った。

小屋まで行く中間で「食べ物があるか?」と聞いたので、持っていたパンを与えたら喜んで食べた。歩いている間じゅうずっと話かけていたが、話の意味は分からなかった。「水があるか?」と言った。

小屋について夕食を食べさせた。家人が丸くなってずっと囲んだところ、現地人の奥さんが夕食を出したら涙を出して感激して食べた。ご飯に肉、牛のしっぽのスープ、煮魚、お代わりを求めた。

次いで村長宅に連れて行った。これはジープで行った。それから警察署へ来た。(9時半頃)ここで2時間くらい話をした。いろいろ調べを受けGuam Memorial Hospitalに入院したのは夜中を過ぎていた。

1月25日。横井氏の住んでいた地点まで警察の人たちを案内した。この時、警察の人の靴をもらってはいて行ったので、右足に靴擦れを作ったと言う。

以上が、発見者の証言をもとにグアム側から日本側が聞きとった横井さん発見の瞬間からの動きだ。A4のサイズで2枚に渡って書かれていた記録で、全部で200枚あまりのカルテの中には診療記録以外に、こうした「取材メモ」のような文章もあり、大変興味深い。

グアムメモリアル病院内に収容された横井さん

ここに書かれていることと、横井さん自らが、退院後に直接話したり著書などで証言している発見時の様子は大きく違うところもる。

例えば、カルテの中の横井さんは、発見者に命乞いをしてきたと書かれているが、横井さん自身は命乞いをしたとは帰国後に伝えていない。このカルテによって、はじめて客観的な「逆サイド」の証言が明るみに出たと言うことになる。どちらが真実かは確かめるすべはもうないのだが…。

ジャングル生活のルーティーン~どうして頭の中に「暦」を描けた?

月の満ち欠けで月日を換算できますか?

メモ帳も筆記用具もテレビ・ラジオもない中、28年間を頭の中に記憶し続けるなんてどんな技が横井さんにはあるのだろう?

ジャングルに逃げ込んだ当初は日付の感覚はあるのだろうが、次第にそんなことは関係なくはるはずだ。

自分の誕生日は?いま何歳?ことしの干支は?家族の記念日は?など、節目の確認ができないと自分がどう生きているのかもわからなくなろうかと思うのだが…

今回見つかったカルテにはグアム島でどんな過ごし方をしていたのかも横井さんから聞き取って、以下のように書かれていた。超人だと思った。

カルテ文中より抜粋

生活の概要
昼間は概ね潜んでいるが食べ物集めなどをしていたようである。夜は歩くと足跡などつき見つかるので歩かない。日が暮れると寝て、明けると共に起きた。夜は壕内で生活した由。夜寝ていると暑くて苦しいのでその時は水浴をした由。(2時~3時?)(夜中に3回くらい)

時間は陰暦(月で計算し)、太陽暦との差を換算したが、最近年を加算するのを忘れて遅れを出した。日付は暗記した。当初は竹べらを作り、これに記したが移動する時には持っていけないので…記憶することにした。

15年くらい前は竹林にいた。(つかまる迄)。10年くらい前に戦友・志知、中畠氏とは別れて一人で生活をした。8年前に志知・中畠両氏死亡後、全く孤独な生活となる。

このカルテに記されている証言を見ると、横井さんが日にちを記憶しながら28年もジャングルで過ごしていたのは驚く。帰国後の著書などによると、帰国したとき、あまりの日本の寒さに驚いたとのこと。自分の頭の中での計算だと夏に捕まったと思っていたからだ。うるう年などの計算が入っておらず、半年ほどずれていたとのことだった。

横井さんが暮らしたグアム島のタロフォフォ村のジャングル

改めて、横井さんの生活を自分事としてご想像いただきたい。頭の中に孤独なジャングルを描いて見ると、どれだけ大変なことだったろうとご理解いただけるかと。文明から取り残されて生き続ける過酷さは想像を絶する。2022年4月25日は横井さんが名古屋に帰郷した日からちょうど50年になる。

CBCテレビ 報道部 大園康志

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