episode 2
潜伏生活の細部に迫るカルテ 性問題に関する質問も
~元日本兵・横井庄一さんの帰国直後のカルテとの出会い

残留日本兵・横井庄一さんの妻・美保子さんの著書「鎮魂の旅路」(ホルス出版)に書かれている夫・横井さんのエピソードにはこんな内容のものがある。
グアムから帰国した日の1972年2月2日に東京の病院に入院した横井さんは、およそ3か月後に退院し、故郷・名古屋に帰ってきた。そして、名古屋で定期的に通院することになった病院の医師が脳波を調べた所、通常の人の安静覚醒時に見られる脳波が、この時期全く見られなかった。この脳波からグアムのジャングルでの28年の潜伏期間中の横井さんがどんな状態でいたのかがわかるという内容だった。つまり、尋常ではない緊張状態が長期間続いたことを示す脳波だというのだ。
いったいどんな脳波記録なのだろう?客観的にジャングルで耐えた凄さが数値に表れているのでは?こう思ったことが、カルテとその後出会うことになるきっかけ。

さらに、美保子さんの著書には、横井さんがジャングルではゴキブリの交尾の音でも目が覚めたくらいの眠りだったということが紹介されている。
1944年。アメリカの攻撃を受けてあっという間に壊滅状態になった日本軍。捕虜になってはいけないとジャングルに逃げ込んだ横井さんたち日本兵。「捕虜になるくらいなら自ら命を絶て」と教育されていた。生真面目に教えを守った28年とも言えよう。

去年、美保子さんの著書に記されていた名古屋の病院に、脳波記録がまだ保管されているのかを尋ねた。すると、「だれでしょうか?横井庄一さんという方は・・・」50代半ばの私たちの世代は、日本兵・横井さん、小野田さんのことは知ってて当然。令和の時代に勤務する病院職員が「だれ?それ」となることには面食らった。50年が流れるとはそういうことなのだ。仕方のないこと。自分が年を取ったということ。

そして、電話対応してくれた職員の方はこう続けた。
病院職員「カルテが何年病院に保管されるか知ってますよね?」
記者「5年ですか」
病院職員「50年前の個人情報は厳しいです。ありません。」
記者「でも、横井さんの記録は当時の医学界でも大変注目されたものだと思いますし、妻の美保子さんが貴院の医師が『脳波記録を見て驚いた』と話したエピソードを著書に記していらっしゃるので、貴院にはひょっとして残されているのでは?と想像するのですが、探していただくことはできませんか?」
しかし、探すまでもないとの返答。そこからは何も進まなかった。

ならば、帰国後すぐに入院していた国立東京第一病院はどうだろう?まずは、横井庄一さんという人物の丁寧な説明からのスタート。そして・・・
記者「カルテが残っているものかどうかをまずは知りたいのですが?」
病院職員「厳しいと思いますが、一応あるかないかは調べてみます」
その後、院内に保管されていることが判明。そして妻・美保子さんにその報告をしに名古屋から京都に飛んだ。その時93歳でしたが、かくしゃくとされた美保子さんは、話をすぐに理解。「横井のことを若い方々に少しでも知っていただけるのであれば、ぜひ」と放送で公開することに了承して下さった。委任を受けてカルテ開示の手続きをすることに。免許証のコピーなど病院に指示されたいくつかの書類を揃え送付。院内の審査会議を経て、そこから1か月ほどが経過。横井さんの約200ページの診療記録が手元に届いた。振り返れば、拝見できたのは奇跡的なタイミングだったと思われる。妻・美保子さんがお元気でいらっしゃったこと。それが全て。「このカルテは初めて院外の人が目にすることになります」と病院はコメントした。そして、全ての診療科がまさに頭の先から足の先まで調べつくし、クレペリン検査、ロールシャッハ・テスト、知能検査も行われていた。

ドキドキしながら病院の名前が書かれた大きな封筒からカルテを出す。
(脳波記録は?)と200枚の束に目を通していくと、驚くことに横井さんと医師団との入院中の細かなやりとりの記録が次々に目に飛び込んできた。息を飲んだ。激戦となった「グアムの戦い」の戦況まで書かれている。心の中まで迫っていた医師団。
横井さんの脳波を一番知りたいと思っていたものの、目に留まった記録の中には、「生年月日を大きく書いた横井さんの直筆の文字」・「横井さんが書いた名古屋の自宅への道案内の図」・「グアムで収容されていた病院からの申し送り事項にあった発見時の状況説明」・「ジャングル暮らしの間の細かな食事状況」・「将来の伴侶についてどうしたいか」・「帰国後に院内で取材を受けた週刊誌の記事についての感想」・「入院中に皇居や靖国神社を訪ねた時のこと」・「ジャングルでの性的問題に関しての医師とのやりとり」「今、最も困ること・希望」などなど。多岐にわたる医師団と横井さんが交わした会話は、言葉は悪いが、その後日本社会に毒されていく直前の無垢な状態での発言記録として興味深い。忖度や遠慮がない横井さんの発言なのだ。社会復帰してからの横井さんは、戦争について全ては話さなくなっていったことが分かっている。入院直前の帰国会見では「これほど日本の文化が発達しているとは思わなかった」と第一印象を語った横井さん。その後の入院生活3か月は様々な日本の変わりようを一つ一つ受け入れていくことになるのだが、それはそれは大変だっただろうなとカルテを拝見して強く思った。

入院しておよそ2か月たった頃の医師との会話記録では、グアムを離れる時の空港のことを横井さんは覚えていない。映像ではアロハを着た横井さんが、さかんに現地の見送りの人に手を振っている。そして、乗り込んだ飛行機からも窓越しに元気な姿を見せている。しかし、実際は極度の緊張状態が続いていたことになる。

また、羽田空港に着陸した飛行機のタラップを降りると、すぐに厚生大臣に帰国報告をしながら握手。しかし、その握手をしたことを覚えていないとのこと。記録されている映像では、かなりの時間2人は握手を交わし、横井さんは「恥ずかしいけれども帰ってまいりました」と言っている。28年潜伏したジャングルから突然、文明社会に連れてこられるということはこういうことなのだ。ひいては、戦争とは誠に恐ろしいものだということを教えられる。

2022年2月2日 横井さん帰国の日から50年になる。改めて、取材にご協力頂いた横井美保子さんと関係者の皆様、国立国際医療研究センター病院に感謝致します。
CBCテレビ 報道部 大園康志