日馬富士問題から考える「叱る」の本質

北辻利寿

2017年12月23日

画像:足成

最近一度ならず何度も遭遇している場面がある。

街や地下鉄車内などで、自分の進む前に子供が立ちはだかる。すると横にいる親が子供の手を引き注意する「危ないでしょう」「ケガをするでしょう」。

その度に思う、本来は「お邪魔でしょう」が正解では?

この違いは、主体か客体かと言う立ち位置に関わってくる。

子供を思いやる気持ちは理解できるが、家庭内ならともかく、多くの人が行き交う社会に出れば、やはり周囲への気配りは大切である。客体であるべきだと考える。

当の子供たちは、親からの注意をどのように受け止めているだろうか?

 

元横綱・日馬富士の暴力事件で、日本相撲協会の危機管理委員会がまとめた調査報告書を読み、「叱る」ことのむずかしさを痛感した。

報告書は今回の事件について、時間経過を追いながら、関係者の証言によって明らかになった事実をまとめている。そして、当事者の言い分が違っている部分についてもそのまま両論を記述している。

報告書全体から浮かび上がってくるのは、「叱る」という行為が、それぞれの受け止め方によって、その姿がまったく変わっていることだ。

 

日馬富士が横綱の引退会見で語った「弟弟子が礼儀や礼節がなっていない時、正し、直し、教えてあげるのが先輩の義務」という言葉によって、今回の問題は「日馬富士による貴ノ岩への行き過ぎた指導」と捉えられてきた時期もあった。

しかし、報告書によると、もともとは白鵬が「日頃の言動について説教を始めた」とある。当初それをいさめていたのが日馬富士だったのだが、ある時点で日馬富士が「叱る」側にまわった。ここでも「説教」という言葉が使われている。

同席した関係者が暴行を止めなかったことについても「指導のために行なわれているとの思いがあった」「日馬富士も叱りながら暴行に及んでいた」と書かれている一方で、暴行を受けた側の貴ノ岩が翌日に日馬富士に謝罪をした下りでは「謝罪は本人が納得した上でのものではなかった」と明記されている。

 

「叱る」という言葉の意味をあらためて確認した。

『広辞苑』(岩波書店)によると「(目下の者に対して)声をあらだてて欠点をとがめる/とがめ戒める」とある。

『大辞林』(三省堂)によると「(目下の者に対して)相手のよくない言動をとがめて、強い態度で責める」とある。

その根底には"相手のため""相手に気づかせる"という思いがある。その思いが成就するためには、叱られた側がそれをきちんと受け止めることが必要だ。

調査報告書から浮かび上がるのは、「叱る」行為に対する当事者間の明らかなズレだった。

 

調査報告書で新たに知った事実がある。

被害者である貴ノ岩が、今回の事件の1か月前に同じモンゴル出身の力士を叱っていたことがそもそもの発端だと報告書には書かれている。

9月場所中に東京のカラオケバーで、場所を休場中だったモンゴル出身力士が飲酒している場面に遭遇し「厳しく叱責した」のだ。ここでは貴ノ岩が説教する側であった。

その時の態度や言葉遣いが乱暴だとして、同席した白鵬の友人が貴ノ岩に注意し、さらにそれを白鵬に報告したことから、鳥取での事件につながっていったとされている。

「叱る」行為が幾重にも重なる中に、時を経て「酒」そして「暴力」という許されない要素が加担していった。

 

もうひとつの要素として「怒る」は加わっていなかったのだろうか?

前述の2つの辞書で「怒る」を調べると、「腹を立てる」「気持ちを荒だてて騒ぐ」という意味に続き、いずれにも「叱る」と書かれている。

あくまでも辞書の解釈によるが、それほど2つの行為は紙一重ということなのだろう。

一連の事件において「叱る」だけでなく「怒る」も顔をのぞかせていたことは否定できない。

 

わが身を省みても「叱る」ことは本当にむずかしい。

わが子を、後輩を、そして部下を叱りながら、自分の中に「怒り」が姿を見せた経験は正直ある。そして反対に、叱られながら納得できなかった経験も・・・。

しかし、辞書の中、「怒る」の欄に「叱る」とは書かれていたが、逆に「叱る」の意味の欄に「怒る」という文字は存在していなかった。

 

今回の問題で、横綱審議委員会は、貴ノ岩の親方である貴乃花親方に対しても「言動は非難に値する」と叱り、白鵬についても暴行現場に居合わせたこと以外に相撲の取り口を例に挙げて「自覚をどう促すか」と白鵬本人と相撲協会を叱った。

叱られた側がこれをどう受け止めたのか・・・。それによって、各界を揺るがした今回の暴力事件からの次の歩み方が決まる。

年が明ければすぐに1月場所が待っている。

                               

東西南論説風(23)  by CBCテレビ論説室長・北辻利寿】