中日クラウンズの歴史
中日クラウンズ誕生秘話
~受け継がれる佐々部晩穂氏の遺志~
佐々部 晩穂氏
時代は変わり、人も変わり、価値観も変わった。
だが、中日クラウンズのロマンは変わることなく受け継がれている。
ゴルフの普及のために、そしてマスターズに匹敵する大会になるべく、
「生みの親」佐々部晩穂氏の遺志は生き続けてきた。
時代を変えるターニングポイントがある。先見の明を持つ者が、その時代を読み、情熱を持って英断を下し、世の賛同を得たときだ。
1956年(昭和31年)、日本のゴルフ人口は20万人、全国のゴルフ場数は74を数えるにすぎず、ゴルフがまだ一部の特権階級のものと思われていた時代だった。だが、翌1957年(昭和32年)の年末には、ゴルフ人口は40万人に倍増し、ゴルフ場数は100を越える。世に言う第一次ゴルフブームの勃発である。当時の池田内閣が所得倍増計画を打ち出し、日本が高度経済成長に走り始めたことも、ブームを後押しした。だが、その起爆剤となったのは、日本人の心を熱くしたある画期的な出来事だった。力道山の空手チョップに日本中が湧き上がった頃、敗戦国という十字架を背負った日本人は、日本の誇りを取り戻そうとしていたのかもしれない。
1957年10月、第5回のカナダカップ(現ワールドカップ)が、霞ヶ関カンツリー倶楽部で開催された。参加29か国、58名の精鋭が、団体と個人で世界ナンバー1を競う日本で初めて開催される国際競技だった。中でも、共にマスターズチャンピオンの肩書きを持つサム・スニードとジミー・ディマレの米国、この前年に奇跡の全英オープン3連覇を達成したピーター・トムソンとブルース・クランプトンの豪州、さらには若き日のゲーリー・プレーヤーを擁した南アフリカが優勝候補と目された。迎え撃つ日本は、当時42歳、158センチの小柄ながらパワフルなショットと抜群のパッティングセンスに定評があった中村寅吉と、38歳でフェアウエーウッドの魔術師と謳われたテクニシャン小野光一の最強ペアだった。
中村寅吉
10月24日、球史に残る闘いの幕が上がった。初日は大方の予想通り、米国チームがトップに立った。だが、5打差の2位につけたのは日本チームだった。しかも、個人戦においては中村がスニードに1打差の2位。俄然、期待が膨らんだ。小雨混じりの2日目、日本が攻勢をかける。団体戦は、スニードの不振でスコアを崩す米国チームを逆転し、首位を奪った。また、個人戦でも中村が絶好調。難解な高麗グリーンに手を焼く外人勢を尻目に、次々とバーディパットを沈め、ディマレに4打差をつけ、リーダーとなった。3日目、日本の勢いは止まらない。中村67、小野68という好スコアで米国を圧倒し、9打という大差をつけた。個人でも、中村が2位に7打と差を広げ、独走態勢を固めた。
10月27日、霞ヶ関CCは異様な熱気に沸き返った。日本の勝利を観ようと、1万人の大ギャラリーが押しかけたのだ。まさに山が動いた日だ。大声援の中、日本は米国に9打差をつけたまま圧勝。個人戦においても、中村がスニードとプレーヤーに7打差をつけて独走優勝を遂げた。日本が世界に勝った。しかも圧倒的な強さで。日本人のゴルフ観はこれで一気に変わった。そして、ブームが爆発した。
当時中部日本放送初代社長で、名古屋ゴルフ倶楽部理事長の要職にあった佐々部晩穂氏もその衝撃を肌で感じていた。英国赴任中にゴルフを覚えた佐々部氏は、本場のゴルフスピリットを持つ紳士として、また人格者として信望の厚い名古屋財界の名士だった。その佐々部氏は、カナダカップの偉業以来、「名古屋で年に1度くらい、一流のゴルファーを呼んで、最高レベルのゴルフを地元の人たちに見せてあげられないものか」という想いを強くしていた。だが、その実現のためには、幾つものハードルが立ち塞がった。採算が合うのか、トーナメントのためにコースを貸してもらえるのか、運営のノウハウは、そして放送はできるのか…。主催の中部日本放送、中日新聞の社内でも、賛否両論で揺れたという。だが、佐々部氏の情熱が、これらの難題を乗り越え、中部の財界やゴルフ界までも動かすことになった。
第1回大会当時の和合の17番ホール
「一流のゴルファーのプレーを観せることは、名門コースとしての使命です」と熱弁をふるい、名古屋ゴルフ倶楽部のメンバーを説得して、ついに和合での開催を認めてもらったのである。ゴルフトーナメントへの認知度の低いこの時代、名古屋の名士たちがメンバーとなっている名門を数日間も提供してもらうことが、どれほど困難だったか想像に難くない。運営はスタッフが知恵を絞り合って、何から何までが手作りのスタートだったという。また、「開催するからには、全国の人に観ていただこう」と、民間トーナメントでは初となる東京と大阪をネットする生中継を実施することになった。だが、1960年当時、これほど大規模なプロジェクトはなかった。中部日本放送が一丸となって、この歴史的な事業に取り組んだことは言うまでもない。
こうして、6月1、2日。難産の末に第1回の「中部日本招待全日本アマプロゴルフ選手権」が開催された。当時としては破格の賞金総額170万円、優勝賞金50万円という、プロが羨望する大きな大会が誕生したのである。
18番ホール
後年、佐々部氏はこう述懐している。「当時は本格的なトーナメントを開催するにも難しいことが多く、確かにかなりの冒険でした。しかし、本物のゴルフをお見せすることで、皆さんのゴルフが向上すれば、ゴルフの大衆化もスムーズに行く。だから、誰かがやらなければいけなかったのです。」
その情熱は実を結んだ。ゴルフブームとトーナメント発展の中で、この大会が担ってきた役割は大きい。大会の規模や格式だけではない。地元の全面的なバックアップ体制や、その運営方法、また最初から全国中継を指向したテレビ放送においても、常に日本のトーナメントの規範となってきたのである。
また、佐々部氏はマスターズをこよなく愛した人だった。1964年以来、毎年マスターズ観戦に出かけ、米国では「ジャパニーズ・ミスター・マスターズ」と評判になったほどのファンだった。そのマスターズの素晴らしさに感銘を受けた佐々部氏は、自ら作り上げたクラウンズをマスターズに匹敵する大会にするべく情熱を注いできた。第7回大会からは、名称を「中日クラウンズ」に改め、会場も名古屋ゴルフ倶楽部和合コースに定着し、いよいよ「東洋のマスターズ」として歩み出すことになった。
クラウンズはまさにエポックメーキングなトーナメントして生まれ、ゴルフ界の指標となるべく成長を遂げてきた。第1回大会以来半世紀以上、それぞれの時代に、クラウンズを愛する多くの人の熱意に支えられてきた。時は移り、人は変わっても、創始者佐々部晩穂氏の魂は生き続けているのである。