「背番号11がエースナンバーだ!星野監督から受け継いだエースの心得」

川上憲伸

世の中で活躍する著名人たちにインタビューし、多大な影響を受けた師匠とのエピソードを紹介していく。
今回は、元中日ドラゴンズのエースでアメリカ大リーグでも活躍された川上憲伸氏が野球でのお師匠さんについて聞いてみた。

ピッチャーの原風景を作ってくれた師匠

野球人・川上憲伸を作ってくれた師匠というか、恩人がボクには二人います。

まずピッチャーの原風景を作ってくれた師匠が徳島商業高校時代の武市監督です。

今の自分があるのは単にピッチャーになれたことです。小学校6年生から野球を始めて、高校二年生まではピッチャーは未経験でした。それまで強肩のショートとしてプレーしていましたので、そこに目を向けられたのでしょうか。練習中に呼び止められ、マウンドに来いというところから始まりましたね。ピッチャーをやってみろと言われた時は、16年間生きてきた中で、まさかピッチャーをという驚きと、ピッチャーがやれるんだという嬉しい気持ちがありました。正直、高校までとかはピッチャーといえば花形ですから。サッカーでいえばストライカーのような。それまでずっとピッチャーの後ろを守っていて、いつかはマウンドに立ちたいなと願っていたものです。そこから夢のスタートを切りました。

『タッチ』の柏葉英二郎!?

武市監督の思い出、それはまさに漫画『タッチ』で出てきた柏葉英二郎ですね。無口で、でも伝えるものはしっかりぼくらナインには伝わってくるようなタイプ。とにかく練習は厳しかったです。細かいことは言わず、ある程度自分たちのやりたいようにやらせてもらい、もし悩むようなことが生じれば、練習メニューが組まれる。それも優しいのではなく厳しいメニューが(笑)。今なにかと高校野球界で騒がれている投球制限とは真逆で、試合が楽しくなるほど練習の投げ込みがつらかったものでした。でもその反復練習を繰り返したことが今となっては大変身になったのではと感じています。それから高校卒業までの一年半という短い期間でピッチャーのイロハを身につけました。

当時ボク自身、初めてピッチャーを任されたわけです。ストライクがまったく入らず、自慢じゃないですけど相当なノーコンでした。ノーコンでもイップスレベルの酷いもの。まさにここでも『タッチ』上杉達也ばりにキャッチャー、バッター、審判が全員見上げるかのようにバックネットの後ろへ投げていました。ボールは速かったけど、どこにボールがいくか分からなかったですね。監督には調子が悪くなれば、いつも“下半身で投げろ”と注意してくれたことを覚えています。

「背番号11」がエースナンバーだ!

そしてもうひとり、忘れてはならない恩人であり師匠と呼べるのは星野監督です。監督にはドラゴンズのエースとしてどうするべきかを教えてもらいました。お前が背負う背番号11をドラゴンズのエースナンバーとして作り上げていくには、背中で野手に伝えなければいけないと言われたものです。

入団二年目の遠征時、監督に呼ばれ部屋へ行った時のことです。怒られるかなと思いきや、冷静に話をされました。

“今日のピッチングはその辺のピッチャーと一緒や。お前がそんな思いだったらそれでいい。でもオレはそんなつもりでお前を獲ったわけじゃない”

“どんなことがあっても一人だけで野球をやるな。野手がお前の背中を、背番号11を見て、何かを気づきながら、お前のために打ってやろうとか、守ってやろうとしてくれているんや。キャッチャーだけを見て、ただ投げるんじゃない。それをこれから考えて投げてみい”

チーム全体を見る意識が芽生えた

そこからですかね、星野監督のイメージが一変したのは。 チームのエースとして思ってくれている。意気に感じ、監督の期待に応えていきたいと感じ始めたことを覚えています。それからというもの、試合中の野手の動きを気にしながら投げるようになりましたし、チーム全体を見る意識が芽生えました。そのことを気づかせてくれたことはその後の野球人生において、とても役立ちました。

ピッチャーの素質を開花してくれた種市監督、そしてエースとしての心構えというエッセンスを降り注いでくれた星野監督がいなければ、今のボクはいません。本当に感謝しています。

このインタビューは、プロが恩人である師匠と対面し、指導を受けた“下積み時代”を語り合うドキュメントバラエティ「師弟ご対面SHOW ~私、一人前ですか?~」(9月15日・14時からTBS系列で放送)のスピンオフ企画

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