★In My Life with The Beatles(No.6)
ビートルズの記憶を訪ねて・・・10万円あったら、どこへ行こうか?
CBCテレビ論説室 特別解説委員
後藤 克幸

ロンドン・アビーロードのスタジオを去る時が来た・・・スタジオ前の横断歩道を、スタジオを背にして反対方向へ向かって渡る4人の写真がジャケットになった『アビイ・ロード』。4人は、デビュー以来、慣れ親しんできた仕事場のアビーロードスタジオを出て、新たな方向へ向かって歩み出す・・・“ビートルズ解散”を象徴的に表現するジャケット写真でした。
2019年は、ビートルズ最後のスタジオ録音アルバム『アビイ・ロード』の発売から50周年ということで、この“世界でもっとも有名な横断歩道”に、ビートルズマニアがひっきりなしに押し寄せた一年でした。
世界屈指の観光名所となった“アビーロードの横断歩道”と共に、ビートルズファンにとって、彼らの出身地・リバプールも、ぜひ訪れてみたい場所です。高校生時代にジョンとポールが出会った「セント・ピーターズ教会」、ここには“エリナー・リグビー”の名が刻まれた墓碑が実在することでも有名です。ジョンの幼少時の遊び場だった孤児院「ストロベリーフィールズ」、写真がたくさん飾ってある床屋さんや女王陛下のポートレートを大切にポケットに忍ばせている消防士さんが行きかう懐かしい街の思い出をポールが歌った「ペニーレーン」、レコードデビュー前のビートルズがライブ活動を行っていた「キャバーンクラブ」などなど。
◆スコットランドにもジョンゆかりの地が・・・
イギリス北部スコットランドのさらに最北端にある「ダーネス(Durness)」という静かな避暑地をご存知でしょうか?この町が、ジョン・レノンゆかりの地であることは、あまり知られていません。ジョンがミミおばさんに育てられていた少年時代、ジョンは毎年のように「ダーネス」で夏休みを過ごしていました。この街での思い出の数々が、「イン・マイ・ライフ」でジョンが歌うさまざまな回想のインスピレーションを与えたとも言われています。ジョンの親戚一家が避暑に訪れた際に過ごしたコッテージも残されていて、「ジョン・レノン・メモリアル・パーク」という公園も街の中にあります。
ビートルズゆかりの地は、もちろんイギリスが宝庫ですが、10万円ではとても行けません。まずは、2019年リリースの『アビイ・ロード』50周年記念アルバムを購入。最新デジタル技術により蘇った高音質な4人のリアルな演奏を聴きながら、英国の地に思いをめぐらすだけで、ここは我慢。
◆日本国内に刻まれたビートルズの記憶
1966年、CBC・中部日本放送の招聘・主催で行われたビートルズ日本公演。会場となった日本武道館は、日本でのビートルズの記憶が刻まれた歴史的な場所です。
軽井沢。ヨーコと結婚したジョンは、1976年から亡くなる前年の1979年まで、毎年夏に軽井沢の万平ホテルに宿泊。息子のショーンを伴って、家族で楽しい休暇を過ごしました。このホテルのカフェラウンジで味わえるミルクティーは、当時、宿泊していたジョンが、英国風ミルクティーの入れ方を、ホテルの厨房スタッフに直々に伝授したレシピが、今も伝えられているとのこと。また、軽井沢の街にある、爽やかな緑に囲まれた山小屋風の喫茶室「離山房」もまた、ジョンのお気に入りの場所でした。この店の奥のガーデンにある東屋は、ジョンとヨーコがショーンを連れて頻繁に訪れ、楽しんでいた場所で、店のホームページによると、「ハンモックに揺られたり昼寝をしたり親子で遊んだりと、いつもくつろいだ表情をお見せになりました。あれからずいぶん長い月日が過ぎましたが、素朴な木づくりの店も、ささやかな東屋も、それらを囲む自然の風景も、変わることはありません」と書かれています。行ってみたいですね・・・でも、ここは再度、我慢。予算をキープしておきます。
◆ジョージの足跡をたどって・・・
1991年、ジョージが、親友のエリック・クラプトンを伴って、日本各地でライブツアーを行いました。私は、名古屋公演を観ました。この公演で、最も感銘したのは「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」。ジョージ・ハリスンとエリック・クラプトンの2人がそろってステージに立ち私たちの目の前にいてくれること自体が夢のようでした。その上、『ホワイト・アルバム』では聞けなかった、二人によるギターの掛け合い共演!!心が揺さぶられる素晴らしい演奏でした。
この曲は1968年に作られています。ベトナム戦争の戦火は収まらず、東欧ではソビエトが戦車でプラハに侵攻したチェコ事件が起きました。
平和へのメッセージソングでは、「愛こそはすべて」「ハッピー・クリスマス」など、ジョンの作品が一般的には有名ですが、ジョージも、この「ホワイル・マイ・ギター・・・」で、平和への行動を世界の人たちに促す熱いメッセージを発信しています。
「世界中で、愛が沈黙して、見て見ぬふりをしている。ぼくのギターが泣いている・・・」
ギターが泣いている・・・というのは、ジョージの心の投影と考えられます。
◆「忘れてはいけないことだ」
1991年の来日ツアーで、ジョージは広島公演も行っています。公演の翌日、ジョージは、少数の友人と通訳だけを伴って、広島市平和記念公園を訪問しました。お忍びでの訪問で、平和記念公園側への公式なアポイントも取らず、閉館時間の30分ほど前に、静かに入館したそうです。当時の状況を伝える報道によりますと、ジョージは、展示物を見て回りながら、最初はいろいろと質問をしていましたが、徐々に言葉少なになり、焼け焦げた子どもの衣服を見たときには、涙ぐんでいました。そして、こうつぶやいたそうです。「このことは、決して忘れてはいけないことだ」と。
◆現代にこそ・・・Love and Peace!
ビートルズのメンバーはみんな、1940年代前半の生まれ。第2次世界大戦が終わったのが1945年。日本風に言うと『戦前生まれ』です。ジョンとリンゴは、1940年生まれ。ポールが42年。ジョージが43年の生まれです。4人が生まれたリバプールは、戦争の末期、ドイツ空軍の激しい空襲が街を襲ったということですから、きっと4人の親たちは、生まれたばかりの赤ちゃんを抱いて、空から降る爆弾の下を逃げまどうといった過酷で大変な体験をしていたと想像されます。戦争を直接体験した親や学校の先生、まわりの大人たちから「戦争は、もうこりごりだ」「戦争は繰り返してはいけない」「戦争をして何が残った?失われた命は戻ってこない」など、体験に根差した言葉を、子どもの頃から聞いて育ったに違いありません。第2次世界大戦の体験を直接話法で聞き、子どもの頃の記憶としても心に刻んでいるビートルズのメンバーたちにとっては、平和を希求する気持ちは、共通した価値観だったのだと思います。音楽を通じて平和へのメッセージを発信し続けたのも、ビートルズにとっては、ごく自然な行動だったのでしょう。
1940年代に生まれたビートルズの戦争の記憶、平和への思い、それを原点とした「ラブ・アンド・ピース(Love and Peace)」のメッセージは、今も輝き続けています。いや、いろいろな地域で民族主義の台頭や格差社会の拡大、自国第一主義と分断社会の広がり、宗教対立の激化などなど、不穏な空気が漂う現代にこそ、より必要とされているメッセージなのではないでしょうか?
ジョージが涙を流して「決して忘れてはいけないこと」と語ったヒロシマ。今、改めて「Love and Peace」のメッセージを心に深く刻むために・・・ビートルズの記憶をたどる旅。そうだ、広島へ行こう!