ドラの巻【CBCドラゴンズ情報】

恐竜復権―2018年に向けて始動する中日ドラゴンズをCBCテレビ、CBCラジオではさまざまな番組、企画で特集します!

ドラゴンズタウンに生まれ育って〜熱烈ファンが誕生した昭和の時代〜

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ドラゴンズタウンに生まれ育って〜熱烈ファンが誕生した昭和の時代〜
生まれ育った町に野球場があった。
中日スタヂアム(中日球場)という名前だった。そして、その中日球場を本拠地とするプロ野球の球団があった。それが中日ドラゴンズである。
私が住んでいたのは名古屋市中川区の八幡(やわた)という学区だった。学区の最も北にあったのが中日スタヂアムである。「中日球場」と呼んでいた。私の家は決して隣接しているほどの近所ではなかったが、夕方、家の風呂に入っていると遠くから歓声が聞こえて来る。何かと思えば、中日球場の歓声。チャンスを迎えたり、得点したり、ピンチを抑えたり、ドラゴンズへの声援だった。そんな中日球場のどよめきを毎日聞きながら、私は育っていった。


■「野球は巨人」の時代の中で

中日ドラゴンズというチームを初めて意識したのは、1966年(昭和41年)、地元の名古屋市立八幡小学校に入学した後だった。
当時、野球帽といえば、店で売っているものはすべて「YG」マークだった。読売ジャイアンツのマークである。王貞治、長嶋茂雄という超スーパースターを擁する川上ジャイアンツは順調に連覇を重ねていた。
コミックとテレビいずれでも『巨人の星』(原作:梶原一騎 作画:川崎のぼる)が我々小学生の間でも圧倒的な人気を誇り、その他も『スポーツマン金太郎』(寺田ヒロオ)や『黒い秘密兵器』(原作:福本和也 作画:一峰大二)など、野球漫画の主役のチームはすべて読売ジャイアンツであった。


■帽子のマークは「CD」マークに!

野球帽をかぶりたいものの、「YG」マークには抵抗があると子供心に思っていた時、ひとりの友人が「CD」マークのついた野球帽をかぶって学校に現れた。
「どうしたの?そのマーク」
「中日だよ」
「そんな帽子、売っているの?」
「ワッペンだけを買って、付け替えてもらったんだ」
学区で学校の制服や体操服などを扱っている洋品店が、ドラゴンズの帽子ワッペンを売り出したのだ。すぐに買いに走り、買ってもらった野球帽の「YG」マークを外し、母に頼んで「CD」マークを縫い付けてもらった。嬉しかった。
これが中日ドラゴンズと私の、ある意味で直接的なふれあいの最初の一歩だった。


■ファンクラブの原点は?

1968年(昭和43年)、小学3年生の頃だった。今度は、青空を思わす明るいブルー生地に、ワッペンではなく刺繍で「CD」マークが刺繍されている野球帽を学校にかぶってきた友人がいた。
「その帽子は何?」
「少年ドラゴンズに入ったんだ」
帽子のつばの裏には「少年ドラゴンズ会員」と書かれている。名古屋の中心地・中区にある中日ビルで受付をしているらしい。親に頼んですぐに入会した。会費は500円。
特製の帽子、クッション座布団、イヤーブック(現ファンブック)、そして外野席チケット(こども)12枚が特典として付いてきた。


■銭湯で出会ったドラゴンズ投手

私の学区は中日球場の地元だっただけに、選手とのふれあいも思わぬ場所で訪れていた。例えば、球場近くの銭湯である。
「きのう銭湯に行ったら、渋谷が来ていてさあ」
これも小学校のクラスでの友人の話である。
渋谷とは当時の背番号「17」番、ユニークな「ミラクル投法」で知られた渋谷幸春投手のことである。
今でこそナゴヤドームには立派なシャワールームがあるけれど、当時の中日球場にそんな施設はない。選手たちもゲームが終わると、球場近くの銭湯に汗を流しに来ていた。そして、我々子供たちも、そして大人たちも、それを普通の風景として受け止め、選手も受け入れていた。きっと銭湯では選手と地元の人々によって、その日のゲームについて、感想とか叱咤とか激励とか、様々な会話が日常的になされていたに違いない。裸同士の野球談義である。
またかつての中日球場は勝っていようが負けていようが、接戦であろうが大差であろうが、7回になると外野席が“無料開放”された。その頃を狙って、学区の大人も子供も球場へ急ぎ、ドラゴンズに声援を送った。中日ドラゴンズは「おらが球団、おらがチーム」であった。


■星野に谷沢に・・・有力新人が続々入団

ドラゴンズは、監督が西沢道夫から2度目の監督だった杉下茂を経て、1969年(昭和44年)、宿敵ジャイアンツを率いていたがドラゴンズに移ってきた水原茂に代わる。そして星野仙一や谷沢健一ら数年後にドラゴンズ優勝の原動力になる新人たちが入団してきていた。
そんな中、エース小川健太郎投手が球界を震撼させた“黒い霧事件”で、オートレースにからむ八百長によって逮捕され、ユニホームを脱ぐ。背中からボールを投げる“背面投げ”によって、ジャイアンツの王や長嶋の“ON砲”を手玉に取ってきた背番号「13」番が球団を去ることになったとき、親からその理由を聞かされた。「八百長」という言葉を初めて知ったのも、そんな小学5年生の時だった。「八百長=悪」・・・子供心に鮮烈に焼きつけられた出来事だった。2015年(平成27年)にも野球賭博によってジャイアンツの選手が処分を受けたが、私たち野球少年たちにはショッキングなニュースであった。
1970年(昭和45年)、大阪では「人類の進歩と調和」をテーマとした日本万国博覧会が開催されていた。日本中が半年間の祭りに沸き、学校でも友人同士でパビリオンの名前を覚え合ったり、写真やスタンプを集めたり、戦後復興の象徴だった祭典に酔っていた。ドラゴンズはこの年5位、3年連続のBクラスと低迷した。しかし、私にとってドラゴンズへの熱だけは万博に負けず、冷めることはなく、ますます燃え盛っていった。


■『愛しのドラゴンズ!』について

「ドラゴンズ好きですか?」よくいろいろな人から尋ねられる。そして、私の答はいつも決まっている。「いいえ。好き嫌いのレベルではありません。生活の一部です」
決して大げさではなく、中日ドラゴンズは、私の人生において“生活の一部”である。
実は、中学1年の時から今日にいたるまで、毎日毎日、習慣として日記をつけている。13歳の時からなので、日記帳の数は40冊をとうの昔に超えているのだが、そこには自分についての出来事と共に、折々ドラゴンズについても書いてきた。実際に球場で観戦したゲームのチケットは、すべて日記帳にはさんである。大切なゲームの新聞記事も保存してある。まさに“ドラゴンズファン日記”とも言える。
その日記をもとに、ファンとしてのドラゴンズ球団史をふり返ることになったのが『愛しのドラゴンズ!ファンとして歩んだ半世紀』(ゆいぽおと刊・2016年)という一冊である。(1966〜1971年)



【CBCテレビ論説室長・北辻利寿】

※ドラゴンズファンの立場で半世紀の球団史を書いた本『愛しのドラゴンズ!ファンとして歩んだ半世紀』(ゆいぽおと刊・2016年)を加筆修正して掲載いたします。


画像:筆者の娘が生まれた出産祝いに落合博満選手から贈られたホームラン人形(1989年)(3日11:25)

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