作品の奥深くにあるものを描き出すピアニスト、
エフゲニー・キーシンの音楽

常に輝きと感動を与えてくれるエフゲニー・キーシンの演奏に私がはじめて出会ったのはベートーヴェンの「月光ソナタ」のCDであった。それまでに聴いたこともないような鮮やかなタッチ、ドラマティックな表現で一気に心を鷲掴みにされたことを今でも覚えている。それからすっかり彼の音楽の虜となり、あらゆるディスクを集めてキーシンの演奏を聴き、生演奏にも接してきた。

なぜこんなにも彼の音楽に魅了されるのか。それは常にみずみずしい感動に出会えるからである。旋律はもちろん、たった一つの音の中にも様々な想いが詰まっており、耳を傾けずにはいられないのだ。

そんなキーシンの生演奏に久しぶりに触れることができた今回のリサイタル、最初に演奏されたのはバッハ=タウジヒの「トッカータとフーガニ短調」(BWV565)。華麗な装飾音に彩られた技巧的な編曲で、ピアニスティックな効果を発揮する楽曲になっているのだが、むしろキーシンの演奏は、ピアノからオルガンの重厚な響きを創り出していく。散りばめられた装飾音も、技巧の鮮やかさではなく、楽曲に込められた想いを翻訳して伝えてくれるかのようであった。それに続くモーツァルトの「アダージョロ短調」(K.540)は前曲とは対照的に徹底して終始繊細な音色を聴かせ、真摯な祈りの世界を展開。その余韻の中、前半の最後、ベートーヴェンの「ピアノソナタ第31番変イ長調」(Op.110)が始まった。第1楽章のテンポ設定はかなりゆったりとしたもので驚いた。というのも、この曲の主題は旋律が単音であり、フレーズも長い。一度発音すれば弦楽器のように音を持続できないピアノではかなり難しいものになる。しかし会場全体に響き渡るキーシンの音色は、豊かに歌を響かせていく。またこの遅めのテンポによって、この楽曲から美しさ以上の様々な感情の起伏や続く楽章への布石といったものがじっくりと聴こえてきたため、“嘆き”を乗り越えて勝利宣言するかのようなクライマックスへ至る流れが立体的に見えてきたのであった。

後半はショパンのマズルカが7曲(Op.7-1、Op.24-1~2及びOp.30-1~4)で開始。ここでは左手が刻むリズムにも多彩な音色の変化が加えられることで、踊り手の表情まで見えるような生き生きとしたステップとなる。その上でルバートを駆使した旋律が奏でられるので、舞曲としての確固とした存在感は保ちつつも、より深くショパンの心の声に耳を傾けた演奏として聴こえてくる。プログラム最後の「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」(Op.22)では、どんな一音も聞き漏らしたくないと思わせる輝かしく美しい音色と幅広いダイナミクス、鮮やかな指さばきが混然一体となった演奏によって、さらなる進化を予感させる演奏を聴かせてくれた。

圧倒的な演奏に会場全体は熱気に包まれ、声こそ出さないものの、割れんばかりの拍手とスタンディングオベーションで感動と感謝を伝えていた。それに応えたキーシンの4曲のアンコールもまた、心を打つあたたかい演奏であった。