五輪・パラリンピックの"図柄入り"特別ナンバープレート、申し込み開始!

石塚元章

2017年9月 6日

◆「多様性の未来」をイメージしたナンバー、寄付金を払ってあなたの車にも...?
2020年東京五輪・パラリンピックを記念するナンバープレートの申し込みが9月4日から始まりました。自動車の前後に付いているあの"ナンバー"ですね。

大会のエンブレムが入ったナンバープレートが7千円から8千円程度の交付料金(普通乗用車の場合。地域によって金額が異なる)を支払うことで入手できます。五輪とパラリンピックのエンブレムが右肩に小さく入った2枚がセットです。
今のプレートを返納したうえ、同じナンバーのプレートを引き換えに受け取って取り付ける段取りです。

今回、このエンブレム付きのナンバープレートだけでなく、全面に図柄が入った特別プレートも用意されています。こちらは、交付料金に加え「千円以上の寄付が必要となる」...というのがポイントです。
この寄付金、高齢者や障がい者が利用しやすいバスやタクシーなどの整備にあてられる予定です。

特別ナンバープレートの申し込みは、専用のホームページ(http://www.graphic-number.jp) からできますが、ディーラーや整備工場などが窓口になってくれるケースもあるようですから、一度ご確認を。実際にナンバーが受け取れるのは10月以降...ということになっています。

国土交通省は5つに絞った作品案の中から、市民の意見などを聞いた上で
最終デザインを決定。タイトルは「多様性の未来」。様々な個性が輝きながら集約するイメージ。

◆「地方版」の図柄入りナンバープレート計画も

寄付をすることで作ってもらえる「図柄入りナンバープレート」。

実はすでに、第一弾として「ラグビーワールドカップ」特別ナンバーの交付がスタートしています。街で目にした方もいらっしゃるかもしれません。
このほど申し込みがスタートした「東京五輪・パラリンピック」の特別ナンバーは第二弾ということになります。

さらに、この後に予定されているのが「地方版」の特別ナンバープレートです。導入するかどうかは地域ごとの判断となりますが、こちらは交付料金だけだと白黒の図柄。寄付金を納めるとカラーの図柄となります。
「地方版」の寄付金は、それぞれの地元で観光振興や交通網整備などに活用される予定。この「地方版」ナンバーが交付されるのは、2018年10月頃の予定です。

◆世界で活用される図柄入りナンバープレート
図柄入りのナンバープレートで寄付を集めようという発想は、アメリカやカナダでスタートした考え方です。
たとえば、アメリカのニューヨーク州ではナイアガラの滝をあしらった図柄入りナンバープレートを発行。寄付金は州立公園の整備にあてられています。
また、フロリダ州ではスペースシャトルが描かれたンバープレートで寄付金を募り、宇宙関連技術の振興や宇宙をテーマにした観光開発に活用しています。

1951年(昭和26年)に自動車の登録制度がスタートした日本。正式名称が「自動車登録番号標」であるように、そもそもは登録・分類・識別などが目的だったナンバープレートですが、今、新たな役割が求められているようです。

「防災の日」思いをはせる・・・大災害の教訓

後藤克幸

2017年8月31日

9月1日は「防災の日」。なぜこの日なのでしょうか?

死者・行方不明者10万人以上という未曽有の大災害だった「関東大震災」が起きたのが、
1923年(大正12年)9月1日のことでした。
「防災の日」が定められた理由に、もうひとつの歴史があるのをご存じでしょうか?
1959年(昭和34年)の9月に名古屋地方を襲い、死者・行方不明者5000人以上という
大きな被害をもたらした「伊勢湾台風」です。9月は一年で最も台風上陸数が多い季節ということもあり、「伊勢湾台風」の翌年、1960年(昭和35年)に、国民全体で「防災」を考える機会にしようと「防災の日」が定められました。

●その後もさまざまな大災害が日本を襲いました

大災害が、私たちの社会に残した教訓を振り返ってみましょう。
「阪神淡路大震災」(1995年1月17日)では、犠牲者の8割が建物倒壊などによる圧死でした。この教訓から、建物の耐震性を強化するための「建築基準法の抜本的改正」(1998年)につながりました。
「東日本大震災」(2011年3月11日)では、大津波の被害に加え、過酷な原発事故が発生。津波対策の強化や高台への街の移転などが進められる一方で、原発事故の処理と復興は困難を極めています。遠くヨーロッパでは、ドイツが「脱原発」へ国の政策を大きくシフトするなど、海外の原発政策にも大きな影響を与えました。

●教訓を未来へつなぐ・・・

大災害の辛い経験の中から、私たちは多くの教訓を学び、未来へつなぐ使命があります。
その基本は、こんな言葉で表されます。
『過去の被害は消せないけれど、未来の被害は、減らすことができる』

この言葉を胸に刻んで、今の暮らし、社会のありかた、そして未来を考えるのです。
来るべき「南海トラフ巨大地震」にどう備えるのか?国や行政の取り組みについて、さまざまな議論が続いています。
一方、私たち自身も、それぞれの地域で、家庭で、「未来の被害を減らすために」何ができるか?何をすべきか?・・・9月1日「防災の日」を機会に、じっくり考えてみたいですね。

与那国島へ思いをはせて

北辻利寿

2017年8月29日

与那国という島のことを知ったのは、ノンフィクションライター・沢木耕太郎さんの

「視えない共和国」と題した文章だった。

読んだのはもう30年以上前のことだ。

島の人々とのふれあいなど100ページほどのエッセイの中、最も強烈に覚えているのは、天候など条件が良ければ台湾を見ることができるという記述だった・・・

 

"ひと目でいいから見てみたい。それはぼくが初めてこの眼で見る外国になるはずだった"
※沢木耕太郎(1977)『視えない共和国(『人の砂漠』収録)』(新潮社)

 

そう、日本にいながら"外国"を見ることができる島、それが与那国島なのである。

 

沖縄県にある与那国島だが、本島の那覇市とは500キロ以上離れている。

逆に台湾とは約110キロと近い距離にある。

日本の最西端に位置している島。

北朝鮮のミサイル計画によって緊張が走った今年の夏、数年前に訪れた与那国島のことを度々思い出した・・・。

 

石垣島の空港を飛び立った飛行機は、あっという間に着陸体制に入った。

そして与那国島の東部から海岸沿いの滑走路に滑り込む。

この空港には管制塔がない。

着陸の技は機長の腕次第と島の人は笑った。

晴れていても風が強いと降りることができない場合もあるそうだ。

島内は一周27キロ。

大きな風力発電機がある東崎(あがりざき)。風光明媚な迫力満点の立神岩(たちがみいわ)。大好きだったドラマ『Dr.コトー診療所』のオープンセットにも感激した。

病室からの海の眺めが心を癒す。

たくさんの与那国馬が自由に闊歩している東牧場線、そしてその向こうに広がる太平洋。中でも「日本最西端の碑」がある西崎(いりざき)は素晴らしかった。

たくさんのトンボが飛ぶ中で、東シナ海の美しさに思わず目を細めた。

しかし、雲ひとつない好天にもかかわらず、この日は台湾の島影を見ることはできなかった。

 

この与那国島に、自衛隊が駐屯してから2年目を迎えた。

私が島を訪れた数年前には、「歓迎!自衛隊」という看板と「自衛隊は来るな!」という看板が島内に混在していた。

この自衛隊の駐屯計画は、2009年(平成21年)に町が防衛大臣に対し「与那国島への陸上自衛隊部隊配置に関する要望」を提出するところからスタートした。

島にある二種類の看板のように意見を二分しながら、2015年(平成27年)2月の住民投票で賛成派が勝利し、去年3月28日、島の南東部に陸上自衛隊「西部方面情報隊与那国沿岸監視隊・第442会計隊」駐屯地が開設されたのだった。

 

与那国町は大きな問題を抱えていた。

人口減少である。

太平洋戦争後の1947年(昭和22年)には1万2000人いた島民人口も、その後減り続け、2011年(平成23年)には1680人。町の試算では2020年を過ぎると1500人を割り込むと推定されていた。

町はこの時に策定した「第4次総合計画」で5つの新規雇用策(観光・伝統的ものづくり・畜産・農業・水産業)を掲げて、この時点で1800人への回復をめざした。

そんな中で実現した自衛隊の駐屯。自衛隊員とその家族が移り住み、島内人口は今年5月に1726人と増加した。

 

島の人口減少対策の背中合わせにあるのは防衛問題である。

いわゆる「南西シフト」を考える防衛省は、与那国島に続き、石垣島そして宮古島にも、陸上自衛隊の実戦部隊配置を念頭に置く。

北朝鮮問題の緊張が続く中、先島諸島を舞台にしての防衛問題は、島の人口減少問題とリンクしながら、大きなうねりとなっているように思う。

そして、そのいずれの島も、今なお本島の基地問題に出口が見えない沖縄県、その島々なのである。

 

「台湾が見えますよ!」。

ホテルスタッフの声に驚いたのは、滞在3日目の夕暮れだった。

急いで西の海に目を凝らす。

その姿は想像をはるかに越えるものだった。

それは「島影」なんてものではなく、「山影」そして「大陸」のような姿だった。

その大きさに圧倒されながら、与那国島が"国境の島"なのだとあらためて思ったことを、今も鮮明に覚えている。

 

戦後72年。北朝鮮をめぐる世界の緊張の中、島はどんな夏を送ったのだろうか。

 

東西南論説風(7)  by CBCテレビ論説室長・北辻利寿】

【引用】

※ 沢木耕太郎(1977)『視えない共和国(『人の砂漠』収録)』(新潮社)

ドラゴンズ背番号に物申す

北辻利寿

2017年8月22日

画像:足成

横浜スタジアムを吹き抜ける夏風は、一瞬にして日中の暑さを忘れさせるものだった。

屋外球場でナイターを観戦するのは一体いつ以来のことだろうか?
1996年(平成8年)10月、翌年からナゴヤドームに本拠地を移す中日ドラゴンズのシーズン最終戦を観たナゴヤ球場以来、実に21年ぶりか・・・。
幼き頃から中日スタヂアムそしてナゴヤ球場といった"屋根のない球場"に通った自分にとっては実に懐かしい夏風である。

ハマスタ特製のクラフトビールの美味しさに驚き、場内カメラが観客を映し出しアナウンスで"いじる"演出に笑い、横浜DeNAベイスターズのオフィシャルサポーティングガールズ「diana(ディアーナ)」に合わせてスタンドで踊る子供ファンに圧倒され、そしてスターティングメンバー発表。
先攻であるドラゴンズの先発メンバーを見ながら思った。
背番号の数字が重い・・・。
 
今シーズンに入って、ベンチ登録メンバーを見ると、内野手が荒木雅博選手の「2」の次がいきなりA・ゲレーロ選手の「42」となっていて驚いたことがあったが、横浜スタジアムで「京田、谷、大島、ゲレーロ・・・」と読み上げられる選手の背番号の大きな数字をあらためて実感した。

この試合のスターティングメンバー8人(投手除く)の背番号の合計数は「334」だった。
最も小さな数字が藤井淳志選手の「4」、最も大きな数字が谷哲也選手の「70」。
ドラゴンズの中心選手の背番号について、選手の名前が入った応援歌『燃えよドラゴンズ!』から振り返ってみたい。

20年ぶりにセ・リーグ優勝をした1974年(昭和49年)、最初の『燃えよドラゴンズ!』で歌われた、1番の高木守道選手から始まり、谷木→井上→マーチン→谷沢→木俣→島谷→広瀬と続いた"伝説の"スタメン8選手、その背番号の合計は「67」である。

"野武士野球"を旗印にセ・リーグ優勝した近藤貞雄監督の1982年(昭和57年)は、最終戦まで首位打者を争った1番の田尾安志選手から始まり、平野→モッカ→谷沢→大島→宇野→中尾→田野倉、これで背番号合計「133」。
この時に背番号「57」だった平野謙選手は翌年から背番号「3」に変わるので、そうなると一気にマイナス54で「79」。

落合博満監督の下で、球団初の連覇をめざした2005年(平成17年)は、2000安打を今年達成した1番荒木雅博選手から始まり、井端→立浪→ウッズ→福留→アレックス→森野(井上)→谷繁という8選手で背番号合計「95(96)」。
こう振り返ってみると、いかに今季、一軍のゲームで出場している選手の背番号が大きい数字かが分かる。
誤解してはいけないのは、背番号の大小で選手の活躍が決まるのではないということ。代表的な例はイチロー選手で、「51」という数字を背負い続けている。
この夜の相手、ベイスターズだって田中浩康選手「67」、首位打者争い中の宮崎敏郎選手「51」と大きな番号を背負っている。当のドラゴンズでも野手で今年最も目立っているルーキー京田陽太選手が「51」なのだ。
それでも、やはり野球の場合、グランドには9人、「ナイン」と呼ぶのだから、背番号は若い数字に注目してしまう。

ドラゴンズの背番号の系譜を見るにつけて、ここ数年は、期待されて若い数字の背番号をもらった選手、またはドラゴンズ栄光の名選手背番号をもらった選手が活躍できていない。長年ドラゴンズを愛し続けているファンの立場としての思いであるが、ファンは好きな選手の背番号の入ったユニホームやタオルを買って球場で応援したい。
その数字は分かりやすいものがいいし、伝統の名背番号がいいし、もちろん必ずゲームに出場してほしい。
せっかくその背番号グッズを買った選手が、時々しか出場しない、ましてや一軍ベンチにいない。こんな状態ではファンはやりきれない。
今年のシーズンオフには既存番号のシャッフル含めて、ドラゴンズには大胆な背番号の再編成に期待したい。
 
ハマスタ観戦でもうひとつ印象に残ったことがある。山崎康晃投手含めてリリーフ投手が打者に投げる直前に、球場全体に自然に巻き起こる拍手。
それは応援団にリードされるのではなく自然にハマの夜空に響き、ベイスターズ選手を温かく包み込んでいた。

シーズンも残りわずか、依然として竜の苦しい戦いが続く。
ファンとしてアウェイの球場に身を置きながら、3塁側ベンチに熱い思いを送る・・・ドラゴンズ頑張れ!

【東西南論説風(6)  by CBCテレビ論説室長・北辻利寿】

中日vs巨人・戦いの歴史ひとかけら

北辻利寿

2017年8月18日

画像:足成

プロ野球の2017年シーズンも大詰めを迎えています。
ナゴヤドームでは、夏休み後半に中日ドラゴンズと讀賣ジャイアンツの2連戦がありますが、伝統あるこの両チームは、1936年(昭和11年)からこれまでに1907試合戦っています。
ドラゴンズ側からの通算対戦成績を見てみますと、ドラゴンズの827勝1025敗55分。
昨シーズン、最下位だったドラゴンズですが、ジャイアンツには13勝11敗1分と勝ち越すなど、このところ頑張っている印象が強いのですが、通算対戦成績では200勝近い差をつけられています。
やはりジャイアンツは強いですね。
様々なドラマを歴史に刻んできた両チームの対戦ですが、何と言ってもまず思い浮かぶのは、シーズン最終戦に同率で並び、勝った方が優勝という1994年(平成6年)10月8日いわゆる「10.8」決戦です。
地元ナゴヤ球場で戦ったドラゴンズ、6対3で長嶋茂雄監督率いるジャイアンツに破れましたが、肩を脱臼しても一塁にヘッドスライディングした立浪和義選手の鬼気迫るプレイなど、数々の記憶を残しました。
毎年8月になると思い出すのが、近藤真一(現・真市)投手がプロ入り初登板初先発で、ジャイアンツ相手に見事ノーヒットノーランを達成した1987年(昭和62年)8月9日のゲームです。
高卒ルーキーをいきなりジャイアンツ戦に先発させるという星野仙一監督の大胆な選手起用が、ドラゴンズの歴史に素晴らしい1ページを残しました。
近藤さんは現在ドラゴンズの1軍投手コーチ。若くて粋のいい、そしてファンを夢中にさせるような投手をどんどん育ててほしいですね。

もうひとつ8月の記憶としては、66年前の1951年(昭和26年)8月19日。
中日スタヂアム(現ナゴヤ球場)のスタンドで火災が起き、3人が死亡、300人以上がケガをするという大惨事になりました。
これもジャイアンツ戦です。この時のスタンドに当時は小学生だった高木守道さん(後にドラゴンズの名二塁手さらに監督)が観客としていたというエピソードは有名です。
記憶から記録に目を向けてみましょう。2003年(平成15年)9月16日のジャイアンツ戦の6回裏、ドラゴンズは何と11連続得点をあげました。
1イニングでの11連続得点はセ・リーグ記録です。
この時の監督は途中休養した山田久志監督に代わって采配をふるっていた佐々木恭介監督でした。翌年からは落合博満監督が率いた8年に及ぶ黄金時代、その兆しを感じさせる勢いでジャイアンツに19対2の圧勝でした。
逆に残念な記録もあります。
1ゲームで6個の併殺というのはプロ野球記録ですが、これは、1950年(昭和25年)4月29日にドラゴンズがジャイアンツ戦で喫しました。
野球は普通9イニングですから、6併殺というのはなかなか破られることのない不名誉な記録です。この時は21対6で、もちろんジャイアンツが勝ちました。
このようにプロ野球はじめスポーツは、「記憶」を辿り「記録」を意識して観戦するとさらに楽しみが増すと思います。
そして何といっても大切なことは「現在(いま)」です。
1907試合戦ってきた中日ドラゴンズと讀賣ジャイアンツ、次の試合でどんな新しい「記憶」と「記録」を残してくれるか、楽しみですね。

【イッポウ「金曜論説室」より  by CBCテレビ論説室長・北辻利寿】