平昌五輪と「虹と雪のバラード」

北辻利寿

2018年2月15日

画像:足成

トワ・エ・モワが歌う『虹と雪のバラード』が街に流れていた。

1972年(昭和47年)2月、アジアで初めての冬季オリンピック大会が札幌で開催され、日本中はオリンピックムードに染まった。

このオリンピック閉会直後に社会を震撼させた連合赤軍による「あさま山荘事件」が起きている。その意味では、歴史のタイミングというのは紙一重なのだろう。

 

札幌オリンピックに合わせて、小学校では「五輪ごっこ」が人気だった。

ワックス掃除が終わったばかりのピカピカの廊下でスピードスケートの選手をまねて両腕を振りながら滑ってみたり、友人にズボンの背中側のベルトをつかんでもらい前傾姿勢をとってジャンプ競技の真似をしたり、子供ながらに興奮の日々を過ごした記憶がある。

ゼッケン「45」番をつけて70メートル級ジャンプ(当時)で金メダルを獲った"日の丸飛行隊"笠谷幸生選手の勇姿は記憶に焼きついている。

 

平昌五輪での熱戦が続いている。今の子供たちは、このオリンピックをどう受け止めて、どう楽しんでいるのだろうか。

 

雪や氷の上での熱い戦いの一方で、北朝鮮の参加によって、この大会が一気に政治色を増したことは間違いない。

開会式での南北朝鮮チームの統一旗を先頭にした入場行進、そして聖火リレーでの両国選手のバトン。こうした姿をスタンドで見守るのは、来賓として訪れた北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長の妹である金与正党第一副部長、そして金永南最高人民会議常任委員長。

韓国の文在寅大統領の歓待モードを相まって「ほほえみ外交」なる言葉も登場した。文大統領への訪朝も親書によって要請された。

この南北融和ムードを見ながら、つい1か月前までの北朝鮮の核・ミサイル開発をめぐる国際的緊張は一体どこへ行ってしまったのかと不思議な気持ちになる。

またメディアに身を置く立場として僭越なのだが、「北朝鮮情勢が緊迫」「Jアラートとは?」「今年の漢字は"北"」などと伝えてきながら、北朝鮮の五輪来韓メンバーらを「美女応援団」「美女軍団」などと持ち上げる違和感も否めない。

 

「平和の祭典」と言われるオリンピックだが、その歴史を振り返ると国際政治との関係は深い。あらためてその思いを強くしたのは、平昌五輪開会式の入場行進で日本選手団の副団長として参加した山下泰弘さんの姿を見たためでもある。

柔道選手として一世を風靡した山下さん。1984年(昭和59年)ロサンゼルスオリンピックでの金メダル獲得などによって国民栄誉賞も受けたスポーツ界のヒーローであるが、その4年前には涙を見せていた。

ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議して、アメリカが1980年(昭和55年)8月にモスクワで開催されたオリンピックをボイコット、西側友好国に対しても大会不参加を呼びかけた。日本も追随してこの年の五輪参加を見送った。

当時「金メダル確実」と見られていた山下選手は悔し涙を流したのだった。

山下選手がケガをしながらも無差別級決勝でエジプトのラシュワン選手を破って金メダルを手にした1984年ロス五輪については、今度はソ連はじめ東側諸国がボイコット。

1988年(昭和63年)のソウルオリンピックにて12年ぶりようやく世界各国の揃い踏みが復活した。

 

札幌冬季オリンピックの同じ年、1972年9月には、ミュンヘンオリンピックの選手村にパレスチナのテロリストが侵入し、イスラエル選手らを殺害する事件も起きている。

混迷する中東情勢の中で起きた、五輪最大の悲劇である。

 

さらに歴史をさかのぼれば1936年ベルリンオリンピックは、当時ドイツで台頭していたアドルフ・ヒトラーのナチス政権が、プロパガンダに利用した大会として刻まれている。大会の裏にある軍国主義や反ユダヤ主義を感じ取ったヨーロッパやアメリカはボイコット運動を行ったが、この時は不参加までは至っていない。

そして、その後に第二次世界大戦が勃発したことは、歴史が証言している通りである。

 

平昌五輪も、各競技が進むに連れてようやく選手たちが主役の座につき、開会式で世界に示された政治色は日々薄くなっている感があるが、この五輪後には延期されていた米韓合同軍事演習も再開される見通しである。

再び緊張が訪れるのか。北朝鮮をめぐる情勢は「ほほえみ外交」という言葉とは裏腹に予断を許さない。

 

『虹と雪のバラード』では、歌の中でオリンピックのことを「きみ」と呼びかけていた。平昌五輪、「きみ」は大会後の北朝鮮情勢にどんな実りを残してくれるのだろう。

   

東西南北論説風(31)  by CBCテレビ論説室長・北辻利寿】