気分爽快! 中部英傑伝
1950年・昭和25年、CBC創立以来の50年間に、様々な分野で中部を築き活躍した人々を紹介し、その人間ドラマとともに激動の半世紀を振り返る、「中部英傑伝」!

今週の英傑は
4月30日(月)〜5月4日(金)/
伝説のシェフ・志摩観光ホテル総支配人総料理長の高橋忠之


4月30日(月)
「陽が傾き、潮が満ちはじめると、志摩半島のあごわん英虞湾に華麗なる黄昏が訪れる。」山崎豊子のベストセラー小説「華麗なる一族」はこんな書き出しで始まります。舞台となったのは、志摩観光ホテル。昭和26年開業、戦後初の本格的リゾートホテルとして当初から注目を集めました。そしてこの志摩観光ホテルの名を、料理で世界に知らしめた男がいます。
高橋忠之。志摩生まれの志摩育ち。昭和32年、15才で志摩観光ホテルに入社し、料理人としてのスタートを切ります。人一倍の努力と才能、そして類い希な感性は、29才の時に一気に開花します。料理長への大抜擢。
高橋は、料理長就任を機に、大胆な厨房改革を行い、志摩観光ホテルを一新します。そして、その後のたゆまぬ研鑽の末、高橋は、オリジナルメニューの確立を成し遂げるのです。昭和55年、料理作品集「海の幸フランス料理」を出版。珠玉の料理の数々が紹介されたその本は、日本フランス料理界に衝撃をもたらしました。料理を作品とし、己を語る料理人の登場でした。以降明らかに日本のフランス料理界は変わったのです。
志摩の食材にこだわり、海のデータを毎日確かめ、土を調べ、素材を徹底研究して調理に臨む厳しさ。できあがった料理に添えられるメニューの名は、まるで一篇の詩のごとく名付けられ、人々はそこに極上のエスプリを感じ取ります。
フランスの作家であり、ドゴール内閣時代のぶんかしょう文化相であったアンドレ・マルローは、高橋の料理にこんな賛辞を残しています。
「料理は、絵画や文学、彫刻、音楽、演劇などと並んで芸術のひとつとしてフランスでは存在している。私はあなたの料理を芸術として認めたい。」
「料理は芸術である」という精神を持ち、そのことばを語るに価するまでに極めた、それが高橋忠之という男なのです

5月1日(火)
「こんなんはフランス料理やない!」昭和30年代。著名な財界人や皇族、文化人、外国の政府要人を迎え続けていた志摩観光ホテルにも、大衆化の波が押し寄せ、メニューも、正統派フランス料理から、洋食屋さんスタイルに変化しつつありました。15才で厨房入りし、ひたすら修業に励んでいた高橋は、メニューの変化に伴って、素材の質も格段に低下してきたことに苛立ちを覚えます。しかしこの世界、料理長にならなければ方針は変えられない。
このままではだめだ。なんとか自分は本物のフランス料理を修得したい。そんな時、天皇陛下の料理番と呼ばれた秋山徳蔵が書き下ろした料理本に出逢います。それは、フランスの偉大な料理長、オーギュスト・エスコフィエの料理手引きを丁寧に解説した、まさに宝箱のような本でした。寝る間も惜しんで、その宝をノートに書き写す。約2年、ノートは優に200冊を超えていました。
技術マスターの早さ、勘の良さ、人一倍の努力。そして、並々ならぬ信念は、21才で実質2番手の料理主任の座を高橋に与えました。
そして、26才の時、それまで修得したものを集大成すべく、当時最もフランス料理が充実していた東京パレスホテルの研修を申し出ます。そこで得たものは、ホテル料理の本質でした。厨房設備からメニュー構成まで、目からウロコが落ちるとはこのこと。何もかもが自分たちのレベルとは違う。しかし、高橋には、それらをしっかりと吸収する力がありました。研修が終わる頃には、高橋の脳裏に理想とすべきリゾートホテルの姿ができあがっていたのです。あとは実現するのみ。「海外留学経験もなければ、師匠も持たないシェフ」高橋忠之は、まさに独学でフランス料理の基礎を修得し、ホテル料理はかくあるべしという信念のもと、自力で料理長への道すじをつけたのでした。

5月2日(水)
「いままでのメニューはすべて捨てる。」高橋のことばに、緊張が走る調理場。「レシピも鍋に残ったソースもすべて処分する。」今度は明かな動揺が広がる。
昭和46年7月1日。高橋忠之は志摩観光ホテルの五代目料理長に就任します。弱冠29才。自分の描いた構想が受け入れられなければホテルを去る。その覚悟で臨んだ高橋は、まさに革命をおこします。
「松阪牛のヒレ肉、コンソメに使う牛のスネ肉を例外として、他の食材はすべて志摩の海と風土が育んだ素材以外は使わない。鶏も豚も羊も、このホテルでは一切料理しない。」洋食定番メニューもすべて捨てる。それは、高橋のコンセプトに基づいたオリジナル料理のみを提供することを意味していました。
志摩観光ホテルを、志摩の食材にこだわった「宿泊施設のついた巨大なレストラン」にする、それが高橋の構想でした。
高橋の大改革に真っ先に抵抗したのが、料理人達。わずか2ヶ月で半数近い料理人が去りました。また、高橋を料理長に大抜擢した社長の川口でさえ、「お客さんはエビフライやハンバーグを食べたがっとるやないか」とメニュー構成に激しく反論を唱えました。しかし、大局をにらんだ自分の構想に自信のあった高橋は断固として方針を貫きます。ちなみに、高橋がこの時創り出したコースメニューは、奇しくも、その後フランス料理界を席巻したスタイルであり、まさにそのさきがけだったといえます。お客からも、初めは「皿の順番が違う」「高すぎる」「なんでエビフライがない」などクレームもありましたが、「変わったね」という驚きから「うまい」「素晴らしい」という賞賛に変わっていくのにさほど時間は要しませんでした。料理長就任から1年後、ホテルの売り上げ、利益は、はっきりと拡大し、高橋の大革命は成功ののろしを打ち上げたのでした。

5月3日(木)
伊勢エビは伊勢エビ以上に。すなわち「火を通して新鮮。形を変えて自然」
それが、作品集「海の幸フランス料理」に結実する高橋忠之の到達した料理の真髄。高橋は、自分の料理を「料理長自己流」と表現します。このことばには、独自の世界を構築した者ゆえの自信がみなぎっています。
しかし、高橋がこの域に到達するためには、ある試練を必要としたのです。
それは、フランス研修でした。師匠もなく、フランス留学も経験せずに、いわば独学でありながら、フランス人からも絶賛される料理を作っていた高橋が、ついに料理長就任2年目・30才にして本場の地を踏むときが来たのです。
フランスは、高橋に何を教えたのか。
タマネギやにんじんを煮崩して、ただクリームを入れただけの野菜ポタージュ。フランスに着いて最初に食べたその一皿で高橋は衝撃を受けます。これは、自分が今までフランス料理だと信じていた野菜のポタージュとはまるで違う。
しかし、野菜を育てた大地の味や太陽の恵みが感じられる。確かにこれがフランス料理なのだ。歩けば歩くほど、自分が抱いていたフランス料理神話が崩れていく。一つとして同じものはなく、どれもシェフの主張がある。
帰国した高橋が最初にとった行動は、15才から書きためた膨大な調理日誌、宝ともいえる料理メモ、そのすべてを葬り去ることでした。まさに料理人生命を賭けた、過去への訣別でした。次にとった行動は、日本の精神文化を知ることでした。日本人として、料理をつくるシナリオを根底から組み立て直す。
崩壊から覚醒、そして再生へ。この自己改革こそが、「伊勢エビのビスク」
「アワビのステーキ」など、数々の名作料理を生み出したのです。

5月4日(金)
料理長イコール総支配人。昨今でこそオーナーシェフということばを聞くようになりましたが、戦後初のリゾートホテルというプレステージ・ホテルで、何故このような革新的な人事が実現可能となったのか。それは、ひとえに高橋忠之の、料理人としてのスケール感にありました。
筑紫哲也との対談で、「料理長とはなんぞや」と問われて、「修辞学」だと答えたという高橋。修辞学とは、「思想」を最も有効に表現して人に感動を与える方法を研究する学問。「あの、志摩観の高橋の料理。」一度食べてみたい、もう一度食べてみたいと思わせる力を高橋の料理が持っているのは、料理を、「感動を与える」修辞学と理解する料理長としての姿勢にあります。
優れた料理人たるもの、調理技術を徹底して磨き、素材を究め続ける。しかし、高橋が目指したのは「優れた料理人以上のもの」でした。高橋は、料理のみならず、料理にまつわる物語を創造する豊かな才能を持ち、それをプロデュースする能力にも長けていたのです。うまい料理をつくり、プロデュースして、販売利益をあげるという経済原則を貫き通す。それは、高橋にとって、作品としての料理づくりを守り抜くための道でもありました。
高橋の料理をこよなく愛した作家の一人は、「はじめて食べた時、その料理に心を奪われた。しかし、それは、料理のおいしさのためだけではない。料理のおいしさを包んでいる、何かさらに大きいものが感じられたからである。」と絶賛しています。それこそが、料理の修辞学を目指した高橋の成果であり、プロデュース能力の真価と言えます。


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