気分爽快! 中部英傑伝
1950年・昭和25年、CBC創立以来の50年間に、様々な分野で中部を築き活躍した人々を紹介し、その人間ドラマとともに激動の半世紀を振り返る、「中部英傑伝」!

今週の英傑は
9月4日(月)〜9月8日(金)/東山動物園初代園長・北王英一


9月4日(月)
戦時中。空襲に備えて、次々と猛獣射殺の軍事命令が全国の動物園に出されました。「子供達の愛する象は猛獣ではない。」その時命をかけて象を守ったのが、名古屋市東山動物園の北王英一園長でした。

北王英一、明治33年京都の呉服商に生まれ、動物好きだった父親のすすめで獣医をめざします。大阪市立天王寺動物園に勤務していた頃、当時名古屋の鶴舞にあった鶴舞動物園が手狭になり、新しい動物園を開設する計画が持ち上がって、大阪の北王がヘッドハンティングされます。スカウトにあたった鶴舞動物園の岩田園長は、トラが身体をすり寄せて北王に甘える姿を一目見て、「彼しかいない」と即決します。
1937年・昭和12年。初代園長となった北王は、画期的な無柵式という施設スタイルを導入します。無柵式とは、ドイツのハーゲンベック動物園が1906年に開発した柵のない獣舎ですが、なにしろ日本では初めての試み。「危険だ」「逃げたらどうする」と反対意見が飛び交う中、ローレンツ・ハーゲンベック氏がサーカス団を率いて来名、強力な助っ人となります。ライオンの獣舎の場合、幅8メートル深さ5メートルの堀を掘れば十分に安全という。しかし実際に掘ってみると案外狭い。「これならわしでも飛び越せる。逃げても知らんで。」と周囲から脅かされ、あわてて幅を1メートル拡げたという一幕もありました。 だだっ広い正門も、市議からは「人が来なかったらどうする」とクレームがつきましたが、ふたを開けてみると、東山まで延長された市電が連日満員。乗り切れない人々が覚王山から延々と列を連ねて歩くという大盛況ぶり。
最盛期には約290種、収容数東洋一を誇る動物園に育て上げたのでした。

9月5日(火)
開園当初、象が1頭しかいなかった東山動物園。子供達に人気のある象をもっと増やしたい。北王園長は、名古屋興行を打っていた木下サーカスに2頭の象を譲ってもらう談判を申し入れます。折しも日中戦争が拡大する中、サーカスの先行きも危ぶまれる状況下。木下団長は、象にとってもその方が安全に違いない、と決断します。但し、「4頭の家族を引き離すのは忍びない。4頭全部なら譲りましょう。」との返事に、北王園長は、大岩市長・市議会を説得し、なんとか4頭を譲り受けます。
しかし、納得しなかったのは、サーカスの団員。特に象使いの少女達は「象と別れるのはイヤだ」とぎりぎりまで涙の抵抗、最後の夜は皆寝ないで象の世話をします。
真冬の名古屋の街を東山動物園に向けてゆっくりと行進する、4頭の象。一番上で大きなキーコを先頭に唯一オスのアドン、小さいエルド、利口で美人のマカニー。サーカスと同じ順に、前の象の尾を鼻でつかんで歩く。そして両側に付き添い、泣きながら歩く10人ほどの少女達。新栄あたりで冷たいみぞれが降り出すと、我が身が濡れるのもかまわず、自分たちのコートや上着を脱いで象に着せてかばう。その姿に、同行していた北王園長は激しく胸打たれました。

自分もまた涙しながら、「今後どのようなことがあろうとも、この象たちは必ず守る。」そう誓います。少女達と象の愛の行進。このできごとが、後に殺処分から象を守るという北王園長の強い信念を生んだのでした。

9月6日(水)
1943年・昭和18年、時局は太平洋戦争下。「帝都としての治安上」という名目で、上野動物園が象をはじめ27頭を殺処分したという衝撃的な情報が全国の動物園を揺るがしました。「我々だけでも動物たちを守ろう」という願いもむなしく、ついに東山動物園にも猛獣の処分命令が下ります。
1944年・昭和19年12月13日、名古屋大空襲の日。園長室で、押し問答の末、目をつむり腕組みをしたままの北王園長。それを取り囲む警官が、最後通牒とばかりに一斉射殺の命令をつきつけます。しばらく無言の後、「やってください」と、絞り出すような北王の声。泣きながら立ちつくす北王の目前で、次々と散弾銃で射殺されるヒョウ、トラ、ライオン。
月の輪熊を殺す段になって、「胸の月の輪を狙うから立たせろ」と言う。北王が餌の芋を持って柵に立つ。いつものように餌をくれるのかと、後ろ足で立ち上がった途端、銃口が火を噴く。「許してくれ!」はりさけそうな心の中で何度詫び続けたことか。
それでも象だけは守り抜きたい。すでに東山動物園を除く国内の象たちはことごとく殺されていました。北王は、軍部や警察へ日参し、象は利口で、どう猛ではないことを説明して歩き必死に延命を訴えます。象たちの4本の足を頑丈な鎖で縛らせ、暴れても逃げられないようにし、「殺すのなら自分も一緒に」とまさに命をかけての嘆願でした。最後に返ってきた「勝手にしろ」の一言で、4頭の象たちの命は守られることとなります。この時の北王園長の叫びは、ヒトと動物、まさに同じ生命を分かつものとしての痛みが生んだものでした。

9月7日(木)
北王園長の命がけの嘆願により、東山動物園の4頭の象は殺処分を免れます。しかし、寒さと餌不足で栄養失調になり、まるでしぼんだ風船のようにやせ衰え、キーコとアドンが絶命します。生き残ったマカニーとエルドだけでも守り抜かねばと、北王園長と飼育係の浅井力三は必死に餌の確保に努めます。
1945年・昭和20年2月。東山動物園は閉鎖され、日本陸軍の駐屯地となってしまいます。しかしある日、何故か象の部屋の通路に、軍馬用の餌であるマイロというトノキビの実がいっぱいつまった袋が積み込まれました。北王園長らにとって、願ってもない天からの贈り物。ここぞとばかりに、太い竹の節をぬいて、南京袋にブスッとさし、もう一方の先を裏の釜の中へと流し込んで、拝借する。それをじゃんじゃん煮て、マカニーとエルドに食べさせる。 「なかば破れかぶれの心境でした。マイロを煮炊きして兵士にわからぬはずはないが、見て見ぬ振りをしてくれたのでしょう。あのおかげで、2頭は生き延びました。」当時を振り返って北王園長は語りますが、このエピソードには後日談があります。
象の部屋の通路にマイロが置かれたのは単なる幸運だったのか。実は、意図的に指示した人物が軍の中にいたのです。当時中部軍管区司令部の三井高孟。三井財閥11家の当主の一人で、大変な動物好きでした。戦後、三井は親しい飲み友達にうち明けています。「自分が命じた兵士がその目的を知っていたかはわからないが、自分は象の命を助けるために置かせた。」しかし、軍規違反なので秘密にしてくれ、と友人にも口止めしたため、存命中に明かされることはありませんでした。北王園長らとともに象を救った人々。そんな風に、陰に隠れた力もあったことを忘れることはできません。

9月8日(金)
1949年・昭和24年、戦後のある日。北王園長の合図で、エルドとマカニーの2頭が部屋の中と外に引き離される。どーんと鉄の戸が2頭を隔てると、突然部屋の中にいるエルドが鳴き始め、激しく鼻で戸を叩く。それを聞いたマカニーがくるっとUターンし、エルドのいる部屋を目指して駆け出す。2頭は扉をはさんで呼び合い、マカニーは何回も何回も額が割れるほど頭をぶつける。
この2頭の深い絆を、複雑な想いでじっと見つめる少年少女がいました。東京台東区のこども議会代表の二人。「東山動物園だけにしかいない象を1頭上野動物園に貸してください」こんな願いは、都知事と名古屋市長の交渉にまで発展し、子供達が嘆願に来名しました。しかし、2頭を引き離すのがどんなに酷なことか知っていた北王園長は、それを子供達にわかってもらうために、あえて実験してみせたのでした。
「生きた象を道具のように扱われるのはこれ以上見るに忍びない。」という北王園長。それでも象は、荒廃した戦後の子供達の希望でした。両者の意図を汲んだ名古屋市・塚本市長は、特別列車を仕立てて東京の子供達に象を見に来てもらおうと決断します。これが、「象列車」でした。戦後の廃墟の中を、子供達と象をつないで走る往復夜行の夢の象列車。東京から1500人、彦根から1400人、松阪から、大阪・京都・草津、さらに埼玉・千葉・神奈川、石川・福井から・・実に総勢1万人以上の子供達が象列車に乗って、マカニーとエルドに会いに来たのです。2頭の象は、まさに、希望と平和の象徴でした。
1963年・昭和38年、悲惨な戦争を乗り越えた2頭の象は、静かに天寿をまっとうします。雨の日も雪の日も、毎晩寝る前に必ず象を訪ね、「ごくろうさん」と声をかける北王英一園長。飼育に携わった誰もがその情熱に胸打たれ、少しでも象を長生きさせてやろうという気持ちに駆られたといいます。


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