気分爽快! 中部英傑伝
1950年・昭和25年、CBC創立以来の50年間に、様々な分野で中部を築き活躍した人々を紹介し、その人間ドラマとともに激動の半世紀を振り返る、「中部英傑伝」!

今週の英傑は
8月14日(月)〜8月18日(金)/フォークボールの神様・杉下茂

8月14日(月)
「スギ、お前フォークボールほうってみんか」1948年・昭和23年1月。 杉下の生涯の師匠となる天知俊一、当時明治大学野球部監督からの思いがけないひとことでした。
「フォークボールってなんですか」
「昔大リーグで、ペノックという投手がほうっていたボールで、ナックルと同じように回転しないボールだ」
身長182cm。手のひらが大きく、指もしなやかで太い。指の力もある。
「お前だったらほうれるんじゃないか」そのひとことでスイッチを押されたように杉下はフォークボールに取り組みます。

とにかく二本の指の間にボールをはさむ。指をフォークのように使うからフォークボール。それしか情報はない。どのようにはさむのか、はさみ方もわからないので、力の入れ方、タイミングが全くわからない。前へ腕を振っているのにボールは後方へすっぽ抜ける。すっぽ抜けてはいかん、と手の振りが速くなるから、ボールはどこへ行くかわからない。
全くの我流ではじめた未知のフォークボール体得。言い出しの天知には、その後中日の技術顧問に就任したため、練習をつけてもらうことができず、途方に暮れた杉下はフォークボールをあきらめようとします。
しかしその時、「スギ、あきらめるな、やれやれ!」とけしかけたのが、二人の明治大学野球部のOBでした。戦前はライオン、戦後の25年には松竹の監督となり、2リーグ制設立後最初の優勝を成し遂げる小西得郎。そしてプロ野球創立と同時に金鯱の監督となった岡田源三郎。いわば、明大の二大元老です。岡田源三郎が、「俺がお前の球を捕ってやる」と自らマスクをかぶりキャッチャーをつとめてくれるという、杉下大感激の猛特訓が功を奏し、次第にフォークボールをものにしていきます。
杉下茂によって、日本で最初に開発されたフォークボール。その魔球は学生時代に編み出され、後に大リーグ・キャンプ留学で完成され、やがてプロ野球界を席巻し、昭和29年、中日を優勝へと導いたのでした。

8月15日(火)
「捕手のとれない球が打てるか」
打撃の神様・川上哲治をして、このように言わしめた杉下茂のフォークボール。

杉下は、フォークボールの特徴について次のように語っています。
「フォークは、ボールの放し方がポイントだ。僕は、直球と同じボールの放し方をするが、手首の使い方で、ボールが2本の指の間からうしろへ抜ける抜け方に違いが出る。うまく抜けたボールは、まったく回転がない。回転がないから風圧によって、横に揺れたり、縦に揺れたりする。直球は回転があるので、ボールの後方に流線形の空気の流れができるため直線的に進むが、フォークは、回転がないから空気の流れがない。つまり、ボールの抜け方によって変化する。また、自分はもともとストレートが速かったので、フォークを有効に使えたと思う。」
フォークボールの使い手となることにより、ゲームでは、前半につぶされることはあっても、土壇場になってつぶされるということはない。土壇場になってピンチを迎えて、さよならされることがない。まさに伝家の宝刀。 フォークをほうられないうち、つまり追いつめられる前に打とうとして打者は早打ちをする、しかもボールを打ってくれるという無敵の威力が、フォークボールにはありました。
フォークを持っているという事実は、マウンドに立つだけで、予測のつかないボールが来るというプレッシャーを打者に与えたため、それほどたくさん投げたわけではないといいます。しかし、昭和29年、杉下は、打倒巨人のために、1試合に10球以上投げ、確実にウイニングショットとしてフォークを使います。打倒巨人とはイコール打倒川上哲治。実際、ストライクゾーンで落下してワンバウンドする球を川上は振らされています。さすがの神様川上も、その年の杉下からは、一割ちょっとしか打てませんでした。川上が打てなくなって、巨人は杉下に35イニング無失点という記録を与えます。 打撃の神様・川上哲治を攻略した杉下茂、フォークボールの神様という伝説の誕生でした。

8月16日(水)
昭和29年。一年だけという条件で中日の監督を引き受けた天知俊一。恩師・天知のためにも、なんとしてでも日本一になりたい。天知も杉下自身も、そしてチームの全員が、杉下のフォークボールに賭けていました。 どうしても勝ちたい、負けられない、というゲームでは当然フォークボールが多くなる。しかし、いみじくも打撃の神様・川上哲治が「捕手のとれない球が打てるか」と語ったように、杉下のフォークは捕手泣かせでもありました。

当時フォークの捕手をつとめたのは河合保彦。オープン戦で「いざ!」とばかりに、フォークを投げたら、河合が胸に当てて落とした。それを目撃した相手ベンチが大笑いしているのが目に入る。これではだめだ、フォークを捕れるようにするためにはどうすればよいか。話し合いの結果、ブルペンでほうるとき、球種を教えないことになった。真ん中に構えて、すべての球種に対応できるように特訓をする。河合の身体は青あざだらけ。しかし、この特訓により、河合は変化球、特にフォークに対応できるようになります。
河合は、杉下に対して真ん中に構える。両膝はやや開き気味。その膝の真上に両腕を構える。つまり、両膝と、捕球するミットと右手とで、正四方型をつくる。右膝がアウトコース低め、左膝がインコース低め、ミットをはめている方の手がインハイ、右手の方がアウトハイ、両膝と両手で、四つの投げる点を示す。
サインは、杉下が出しました。グー・チョキ・パーの三つだけ。グーはカーブ、パーはストレート、チョキはフォークの三種類、但し、パーはシュート・スライダーを含むというもの。
真っ向に構えて、どんな変化にも対応しなければならない河合の苦労もまた大変なものがありました。 魔球といわれたフォークボール、打者だけでなく、味方の捕手にとってもまさしく脅威であったというわけです。

8月17日(木)
一球のフォークボールがひきおこした忘れられない出来事として、杉下茂の思い出に残っている試合があります。昭和29年7月25日。大阪球場で行われた、阪神対中日戦。
7月23日から始まった3連戦に、阪神は2勝しての3試合目。中日の先発は徳永喜久夫、阪神の先発は小山正明。杉下は、3回からリリーフする。
2対2で延長戦、10回表、中日は四球、二塁打でまず1点、ここで小山にかわってマウンドにあがった駒田桂二から杉山がホームランを打って2点中日5対2とリードします。
その裏、阪神の攻撃は、駒田にかわり代打の真田重男。そして問題のワンシーン。カウント2-2となった後、杉下は絶対空振りをさせる、という自信を持って、フォークをほうります。
真田はバットを当てて、ファウルチップ。 主審・杉村は、ファウルチップした球を、捕手の河合が直接捕ったと見て、アウトを宣告。しかし、阪神の監督・松木は、地面に落ちた球を河合がすくい上げた、だからファウルだと強硬に抗議します。
しかし、阪神の藤村富美男も飛び出してきて、杉村主審をこづく。そうこうするうちに松木監督が杉村主審を、柔道の腰投げでグラウンドに転がした。堰を切ったようにグラウンドになだれ込むタイガース・ファン。
松木監督と藤村が退場になり、大混乱がやっと収まった一時間後、ゲーム再開。 しかし、打順が藤村のところにまわると、退場したはずの藤村がバットを持って再びあらわれる。主審は藤村を非難。またもやファンがスタンドから飛び降りてきて、「河合を出せ」と血相を変えて押し寄せてくる。ついに収拾できなくなり、阪神の放棄試合が宣言されます。 いわゆる7・25事件。藤村は、1014試合続いていた連続試合出場の記録をふいにし、松木監督はこの年限りで退団。波瀾の騒動となりました。

8月18日(金)
杉下茂と天知俊一。戦前の昭和14年、杉下少年が帝京商業に入学し、野球部長で英語教師だった天知に巡り会ってから、実に37年間、心臓発作で天知が亡くなる昭和51年まで、二人の師弟関係は続きました。
天知は、決して杉下に手取り足取り野球や人生を教えたわけではありません。ただ、杉下が大投手に登り詰めていく過程で、決定的なアドバイスを与える、杉下が岐路に立たされたとき、いつも陰で支援を送る、そんな師匠でした。

戦後。中国の兵役演習で重い手榴弾投げを徹底的にやらされたため肩は恐ろしく強くなっていたものの、ピッチングフォームを忘れてしまっていた杉下に、明大入りをすすめ、本格的なフォームを取り戻させる。そして、杉下の生涯を決定づけるフォークボールの神託。 昭和24年。杉下は、中日の監督を引き受けた天知から「入ってくれ」のひとことでプロ入りを決断、中日に入団。翌年には27勝15敗でエースにのしあがります。サンフランシスコ・シールズのキャンプ留学に、阪神・藤村、巨人・川上、松竹・小鶴の三大打者に杉下を加えたのも天知の力でした。杉下は、このキャンプで大リーガー相手にフォークボールを試し、くるくる空振りさせることで一気に自信をつけます。川上哲治がネット裏にはりついて、穴のあくほどその練習風景を観察していたエピソードは有名です。

そして、昭和29年。巨人をくだし、西鉄との日本シリーズ第7戦。「肩を痛めるから投げすぎるな」と天知に警告され、通常は一試合3〜4球程度しか投げなかった魔球・フォークボールを「天知さんを男にすればこれで終わってもいい」と、投げまくる。1-0で完封。
警告通り、翌年から急速に右腕が衰えていきますが、杉下に少しも悔いはありませんでした。昭和29年、日本一の中日ドラゴンズ。深い師弟の絆が導いた、史上に残る日本一でした。




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