気分爽快! 中部英傑伝
1950年・昭和25年、CBC創立以来の50年間に、様々な分野で中部を築き活躍した人々を紹介し、その人間ドラマとともに激動の半世紀を振り返る、「中部英傑伝」!

今週の英傑は
6月26日(月)〜30日(金)/植木等

6月26日(月)
Mースーダラ節
1961年・昭和36年。この「スーダラ節」で国民的スターとなった植木等。
「無責任時代」「C調」「わかっちゃいるけどやめられない」などの流行語をぞくぞくと生んだ、日本の高度成長期を象徴するキャラクターです。
「伝説のスーダラ男」その誕生にはこんな背景がありました。

コーヒー一杯が50円か60円の頃。新宿のジャズ喫茶「ACB」では、ハナ肇とクレイジーキャッツが熱狂的な人気を呼んでいました。
折しも、テレビブームが一気に台頭してきた時代。それまでは舞台や小さなライブハウスで扱われていたコントというものが初めて日本のテレビに番組として導入され、多くの優れたコント作家やタレント達を輩出しました。その顔ぶれは、大橋巨泉・前田武彦・永六輔そして陰の仕掛け人・渡辺プロダクションの渡辺晋など現在のマスコミ業界の礎たる人々です。
そのなかで、ひときわ新人作家として脚光を浴びはじめていたのが青島幸男。人気番組「おとなの漫画」で成功し、「シャボン玉ホリデー」に迎えられた青島は、当時「並のタレントよりもコントがうまい」と評価されたテレビ業界の寵児でした。

そしてクレイジーキャッツと縁の深い、ミュージシャン萩原哲晶なる人物。萩原は、後に大瀧詠一がそのサウンドを絶賛した作曲家でもあります。この萩原哲晶にハナ肇が青島幸男を紹介したところ、萩原は、青島のあまりにも戦後派的な発想にショックと感銘を受けたと言います。意気投合した二人は早速共同作業に取りかかります。
まず青島が作詞をし、萩原がメロディを作る。しかしそれでは「よくあるコミックソング」になってしまうので、クレイジーキャッツの人気者・植木等のスキャットを入れることにする。

スーダラ節の譜面を受け取った植木の心境はいかなるものだったのか。植木は当時をこう回想しています。
「本当に腹が立った。僕は役者になろうとかコメディアンになろううとかいう気持ちは全然なかった。ただ、歌手になりたかった。シャンソンとかタンゴとかを歌うオーソドックスな歌手になりたかった。そのために平山美智子からクラシックの発声法も習った。だから譜面を見た時、冗談言うな、こんな歌歌わせやがって!と思った」
録音当日は、フル編成のジャズバンドが30人近くそろい、そうそうたるものでしたが、青島幸男の回想では、「フルオーケストラのチンドン屋といった音」だったそうです。そこに植木等の妙につきぬけた明るさの声がはいり、ついにそれまで聞いたこともない、素っ頓狂な世界ができあがります。

しかし、この大ヒットにより、スーダラ節は日本の軽音楽界に激震をもたらし、植木等の進む道を決定づけてしまうことになったのです。

6月27日(火)
Mー スーダラ節で日本を席巻した植木等は、テレビに映画にとひっぱりだこ。特に映画業界は、テレビに娯楽のお株をとられるという脅威を感じ、植木の映画界入りに熱烈なラブコールをおくります。

こうして生まれたのが1962年・昭和37年の主演第一作「ニッポン無責任時代」
キャッチフレーズは、「とかくこの世は無責任。楽してもうけてワッハッハ」
主人公の平均は、それまでのサラリーマン喜劇の主人公とはまったく違っていました。森繁久弥・小林桂樹などが演じる、それまでのサラリーマン喜劇の主人公は、適度に社会に忠実で、適度に自嘲的という、しみじみとペーソスを感じさせるそれこそ平均的なサラリーマン。
しかし、平均は、平均という文字をそのままあてがった名前でありながら、まったく型破りなキャラクターでした。スーダラ男のいい加減な部分を全面に押しだし、上役にこびへつらいながら同時に上役を裏切ることなど平気な悪役。
それは、上から落ちてきたバレーボールを一度受け止めてから、親切そうに返してやるかと思いきや、下にはねとばしてしまうという、有名なショットに象徴的にあらわれています。
それでどこが悪い、会社なんて、社会なんて、こんなものじゃないか。そんな開き直りが、高度成長期の世相を反映し、痛快なキャラクターとして大衆に絶賛されたのでした。

ところで、当時の映画撮影ロケがいかに大変だったかを物語るエピソードがあります。例えば、岩だらけの崖に立たされて、そこへヘリコプターが飛んできて縄ばしごが降ろされる。その縄ばしごを捕まえて上へ上がって行くという、トム・クルーズさながらのアクションシーン。当然振り子のように揺られて、あまりの怖さに縄ばしごにしがみつく。
元空軍の将校だった古沢憲吾は、有名なスパルタ監督でした。「落ちたら死んでしまう。どうしてスタントを使ってくれないのか」と抗議すると、「だって顔が見えるんだからしょうがないじゃないか」というにべもない返事。
そんな調子で、鉄橋の上を逃げていくシーンを撮影。向こうから本物の汽車が来る。無我夢中で鉄橋のへりに捕まって、汽車が行き過ぎるのを待つ。力尽きて本当に下へストーンと落ちる。後でフィルムを見たら、その部分をカット割りにして使ってあり、落ちた先に馬がいて、ちゃっかり、またがるシーンを作り上げてある。
喜劇とはいいながら、本人はお笑いですまされない命がけの撮影ロケの連続だったようです。

6月28日(水)
Mービロードの月
1947年・昭和22年、ある日のNHKのスタジオ。今まさに番組の本番中。
マイクの前に緊張気味で立っている20才の青年。アナウンスが入る。「続いてお送りいたします歌は、服部良一作曲・藤浦洸作詞、ビロードの月、歌唱は植木等さんです。」
M (FO)
東洋大学時代、植木は軽音楽の同好会を作り、軍需工場などを慰問して歩きます。それが芸能界に接触するきっかけでした。初めの目当てはもちろん慰問先での接待。慰問なので出演料はただですが、銀シャリ、ステーキ、アイスクリームを食べさせてもらえること、そして何より女子の作業員にもてることが最大の魅力だったそうです。灰田勝彦やディック・ミネの声帯模写も人気のレパートリーでした。
やがてテイチクレコードのオーディションで1500人の中を残り、プロへの道を拓きます。

もともと三重県宮川村に、お寺の三男坊として生まれた植木。長男・次男の二人を戦争で亡くしていた両親は、当然三男の等が寺を継いでくれるものとばかり思っていました。父・徹誠は僧侶でありながら社会運動家としての活動により、投獄された経験も持つ、筋金入りの硬派。植木は、芸能界入りの許しを得るために理屈をひねり出します。
「坊主は死んだ人間を供養する。芸能人は生きた人間を楽しませる。この俺は、生きた人間を楽しませたいから芸能界に入る」
このことばは、実は父・徹誠が昔檀家の人々に誓ったことばの引用でした。
「坊主である私の仕事は死人を供養することだけでなく、生きている人々の良き相談相手になることです。」そんな自分の信念の言葉尻をとらえて屁理屈をこねる息子を父は激しく一喝します。母親は、「親戚に顔向けできない」と泣き出す始末。

さて、歌手デビューを果たさんとするNHKのスタジオで、マイクの前に立つ植木等をガラス越しにじっと見つめる壮年の男性の姿がありました。ミキサー室で椅子に座っていたその男性は、「歌は植木等さんです」とアナウンスがはいった瞬間にぱっと立ち上がります。ぎょっとしてあやうくとちりそうになった植木。
後から植木は、父に尋ねます。「なんであんな時に立ち上がったんだい?」
「なんだか自分が呼ばれたような気がしたものだから」実は徹誠も若い日、義太夫語りになりたいと言って父親に勘当されかけたのでした。最も強く反対しながら、植木のデビューを最も喜んでいたのは他でもない、父親だったのです。

6月29日(木)
植木等が最も影響を受けた人物。それは父親でした。
植木徹之介、得度名を徹誠。父親の鮮烈な生き方を、植木は「夢を食い続けた男」という自伝的な本で、大衆に紹介しています。

植木等の父親・徹之介は、得度するまでは、真珠王・御木本幸吉の元で働いていました。御木本幸吉は、母方の親戚だったのです。腕のいい飾り職人だった徹之介は、1923年・大正12年に大役をいいつけられます。11月に予定されていた昭和天皇御成婚で良子女王が身につける冠・首飾りをはじめとした装身具一式、そのすべての製作を御木本が担うことになり、徹之介は沐浴斎戒に徹して冠づくりに専念します。
9/1、昼。突然の激しい揺れ。関東大震災でした。工場から飛び出した徹之介は、逃げ延びた日比谷公園でばったり御木本幸吉にでくわします。「冠が無事かどうか工場へ戻って確かめろ」と幸吉の開口一番。徹之介はそれに対して、「冠みたいなものは潰れたってまた作り直しがききます。人間は潰れたらそれっきりなんだから、俺は行かない。イヤだ」と逆らう。その時の幸吉の怒りたるや、後に和解するものの、結局徹之介はそこでクビになってしまいます。
心中には、四日前に生まれたばかりの次男への思いがあったのでしょうが、
この一件を機にますます徹之介の社会運動熱に拍車がかかります。

やがて名古屋の本願寺別院で得度しますが、僧侶というよりは思想家。
「植木等」の名前は本名ですが、これも徹之介が「平等」ということばを元に「等」と名付けたのです。
少年だった植木等が鮮明に覚えているエピソード。ステテコいっちょうの父が、仏像の前に植木を連れて行き、物差しで仏像の頭をピタピタ叩きながら、説教をする。「こら、ヒトシ、この音を聞いてみろ。金ぴかだけど、中は木だ。金じゃないぞ。おまえ、寺を継ぐとしても、こんなものを拝んでどうにかなると思ったら、大間違いだ。これだけは覚えておけ。」
また、青島幸男をお気に入りだったようで、「スーダラ節は、親鸞の教えに合っている。わかっちゃいるけどやめられない、というのは人間の真の姿でよろしい。青島君はエライ!」と絶賛したそうです。

そんな父を、植木は「支離滅裂」の人、と評しました。しかし、植木親子の間には深い絆があったようです。後年インタビューで、植木はしみじみと答えています。「あのおやじと親子になれたということが、僕の人生には大きなプラスだった。」

6月30日(金)
Mースーダラ伝説
1990年、植木等は、かつての自分のヒット曲をメドレーにして「スーダラ伝説」として発表。たちまちヒットチャートをかけのぼり、20数年ぶりに時の人となり、紅白歌合戦にも出場します。植木等がスーダラ伝説を歌った数分間、視聴率はピークの56.6パーセントを記録しました。
この年の紅白歌合戦は、低迷続きで打ちきりが噂される暗いムードでしたが、植木等ただひとりが輝いていました。初めて植木を観た少年が「この男はおもしろい!」と叫んだ、そんな突き抜けた明るさに満ちていました。クレイジーキャッツの大ファンで植木等とずっと懇意だった作家・小林信彦は、「植木のパフォーマンスには、彼以降の喜劇人にない大きな何かがあり、それが爆発した。」と語り、リバイバルを歓迎しました。往年のファンはその時、夜の並木道で踊っている平均の姿を重ねていたことでしょう。

翌年はツアーを決行、10代から6、70代という不思議な客層で会場は埋め尽くされ、大成功。どの会場でも、クライマックスでは、男性の歓声ともうなり声ともつかないどよめきが会場に響き渡るという光景がみられ、植木等のカリスマ性を物語っていました。

11才の時に寺の小僧に出され、遠く故郷を離れる時、母の姿をふりかえりふりかえり泣いていた。思想運動で投獄された父のために、登校前に刑務所に弁当を届け、下校後は檀家まわりと家事手伝いに追われる極貧の少年時代。いじめられ、石をぶつけられて顔面から血が噴き出しても、「お寺の子は決して乱暴をはたらいてはいけない」という母のことばを守り、じっと耐えた少年でした。学生時代は、北海道に援農学徒として住み込み、酪農を手伝ったこともありました。
しかし、若い頃から植木を知る人々は一様に言います。「どれだけ貧乏してきたか知れないが、そんなことを微塵も感じさせない明るい青年。」
クレイジー・キャッツのハナ肇は、長年植木の身近にいました。
「植木は、こういうことをやったらいいことであるか、悪いことであるか、また損であるか、得であるかということをパッと考える人です。しかし考えたからといって、そのとおりにやるともかぎらない。そこに植木の人間味がある。」
まじめさと底抜けの明るさ、冷静な判断と突然の計算無しの行動。はからずも植木等という人は、予測がつかない支離滅裂ヒーローを地でいっていたのかも知れません。
近年は、数々の褒賞を受け、あらためて植木等の底力が評価されることとなりました。今年10月には、新・名古屋嫁入り物語の座長としても活躍。健在ぶりを見せてくれることでしょう。




list


トップへ