気分爽快! 中部英傑伝
1950年・昭和25年、CBC創立以来の50年間に、様々な分野で中部を築き活躍した人々を紹介し、その人間ドラマとともに激動の半世紀を振り返る、「中部英傑伝」!

今週の英傑は
5月8日(月)〜12日(金)/ 昭和の大富豪・古川為三郎。

5月8日(月)
平成5年・1993年、古川為三郎は103才の長寿で生涯を全うしました。昭和63年・1988年には海外の経済専門誌フォーチューンで、世界の億万長者に名を連ね、「世界最高齢の富豪」として紹介されています。

名古屋が生んだ世界的富豪はどんな生まれつきだったのか。
資産家の家系・中野家の五男として、明治23年・1890年、愛知県中島郡萩原村(現・一宮市萩原)に生まれた為三郎は、3才で武家出身の商家・古川家の養子となります。貴金属と婦人小間物を扱っていた古川商店は、現在の松坂屋本店の向かいにあり、たくさんの職人も抱える大店でした。
為三郎は、小柄な体躯ながらけんかっぱやく、大須の観音さんや賑やかな界隈を歩き回るのが好きな好奇心の強い少年でした。当時の写真を見ると、利発そうでなかなかの好男子。養父・巳之助は目に入れても痛くないほどかわいがったといいます。しかし、古川家は経営困難に陥り、為三郎は13才でガラス商に奉公へ出ます。
4年間で商売のこつをつかみ、帰ってきた為三郎を待っていたのは、古川商店のなじみの職人たちでした。再興を願っていた彼らは、わずか18才の為三郎にその腕を預けようと続々と集まってきたのです。
人手に渡り閉められていた矢場町・古川商店の店開き。明治41年・1908年、商人・古川為三郎の誕生でした。当時の流行である婦人の洋風束ね髪をねらった最新デザインの装飾品は飛ぶように売れ、為三郎は、東京出張所のほか大阪・京都・神戸と大きな問屋へ商品を卸し、2年後には見事古川商店を取り戻します。
早くから開花した為三郎の商才。為三郎には特に「人を統べる能力」がありました。
300人の職人が加盟している金属同業組合の副会長をやっていたころ。
「これは売れなんだ」「品が悪かった」と難癖をつけて契約金をまともに払わない悪徳問屋が横行。そのうえ問屋に借金もしていると、首を吊るしかない職人まで出た。職人たちのために為三郎は、一策を講じて問屋とやりあいます。「借りた金は返そう。金は返すのだから、今までに納めた品物一切を返してもらおうじゃないか。」強硬な態度で4?5軒の問屋を折れさせ、ついに金を支払わせて、当時の理不尽な問屋制度に風穴を開けました。職人たちは泣いて喜んだといいます。為三郎若干19才、堂々のたんか切りです。
後年「従業員を大事にすることは、知らず知らずのうちに父に教えられていた」と語っていたそうですが、人の気持ちをつかみ、人が自分の周りに集まってくる、天性の「花」というものを持っていた人でした。

5月9日(火)
青年為三郎、武勇伝の一幕。
時は大正6年西暦にして1917年。第一次世界大戦が終わりを告げようとし、巷は船成金を筆頭に染料・鉄鋼・製紙・鉱山と狂乱の成金時代の幕開け。
東京神田馬喰町の出張所を拡張し、明日は名古屋あさっては大阪・京都とまさに東奔西走、機運高まる為三郎。
「いい仕事をしたい。いい仕事をするために、いい材料を仕入れる。」ただひたすらそのことに専念し、それこそきちんきちんと判で押したように必ずの現金払い、信用第一の仕事ぶり。
そんな為三郎の元に、ある日横浜の伊藤商店から使いの番頭がやってきました。横浜の伊藤商店といえば、金・銀・プラチナ・エメラルド・・・特に値の張る貴金属・宝石類の仕入れを一手に引き受けていた貿易商。番頭と取引はあったものの、御大・伊藤松太郎には一度も面識がない。その大物から「是非、さしでお会いしたい」のひとこと。心中穏やかならぬ為三郎でありました。

髪を七三に分け、でっぷりとした体を着物に包んで微笑む、伊藤。
「ちょうどいいものが手に入りましたのでな・・」と、
おもむろにふところから巾着のような革袋を出し、テーブルクロスの上に無造作にひっくり返す。美しくきらめくダイヤモンドの大粒・小粒。ざっと200、いや300はあろうか。
「古川さん、どうですか。掘り出し物です。」
「はあ?」
すると急に厳しい顔つきになった伊藤、「きっちり一万二千円。あんた、これを売ってみる気はありませんか?」
売ってみる気はないかというより、まるで売る力がおまえにあるか?と言わんばかりの鋭い目つき。自分は試されている。
根っから負けず嫌いの為三郎、口から出たことばは、
「売ることはたやすいが、今は一万二千円の大金を持ち合わせていません。」
畳み込むように伊藤。「では今いくらお持ちか」
為三郎がポケットから三千円の現金を出してみせると、すかさず伊藤は言い切ります。「残りの九千円分は、あんたの名刺の裏に書いてもらえばいい。このダイヤを売りさばいて見せてくれ。」為三郎、27才にして持ちかけられた大勝負。成金たちが連日連夜豪遊し、芸者は予約で箱切れ状態の神戸・大阪・名古屋。200個あまりのダイヤをかばんに入れ、持ち前の情報力を駆使し、売りさばくこと売りさばくこと、なんとたったの15日間で完売。二千八百円の売り上げまで上げて、この勝負為三郎の勝ち!とあいなりました。

しかし、本当に為三郎が勝ち取ったものは、実は東京銀座の一等地でした。為三郎を見込んでその腕を試した伊藤の口利きで横浜銀行から多額の運転資金を引き出し、古川商店は、鳩居堂の一軒置いて隣りに店を構え、当時最大手の和光とはりあうこととなったのです。

5月10日(水)
商売を志す人間にとっては波瀾万丈も覚悟の上。為三郎も、窮地に追い込まれることがたびたびありました。
大正9年・1920年、1月。ひたひたと訪れる不況を感じ取った為三郎は、一等地にあった銀座の店をすばやく引き払い、大事に備えます。しかしついにくる1920年春の戦後恐慌。金融パニックで為三郎の持つ手形は紙くず同然となり、23万円、今にして約2億円あまりがかき消えてしまいます。
「手形商売はもうだめだ。現金決済に切り替えよう。」
現金決済の商売とは、日銭をかせぐ商売。たとえば、食堂、遊技場、映画館といったもの。そして場所は、名古屋一の盛り場・大須。
「大須で、不景気がきても絶対に足を落とさない商売をやる。」
これが、大須の映画館「太陽館」の買い取りでした。
その後、「帝国館」「帝国座」と建設、3年間で3つの映画館をつくり、33才にして、名古屋の映画興行主としての足がかりをうち立てます。
不況時代、人々はつかのまのうさを晴らすために酒や娯楽に刺激を求め、大須も映画館も連日連夜大盛況。さらに為三郎は、太陽館の近くの空き地を買い取り、肉鍋屋を開業。周囲は驚きました。貴金属に活動写真、次は肉鍋屋とは、どこまで手を広げるのか。しかし、東京を常に見ている為三郎には先見の明がありました。「娯楽の最先端をいったのが、映画。そして今や食堂と喫茶店も娯楽の範疇に入った。」と。この肉鍋屋は、後の資生堂パーラーの布石となります。
結局、窮地に追い込まれながらも、「日銭の稼げる従業員数の少ない商売」への早い切り替えにより、次の昭和2年・1927年の昭和大恐慌にもびくともしませんでした。
古川為三郎伝・獅子奮迅の中にこう記されています。「為三郎は、『商売』ということばが好きで、よく使う。『事業』とはいわない。『事業』ということばのニュアンスには事務的で無機質、暖かさがないかららしい。『商売はな、金をもうけるためにやるんじゃなく、人が喜ぶことをやる。そうすると、ひとりでに金が入ってくる』というふうに『商売』のことばを使うのである。」

為三郎は、人々が何を欲しがり、何が人々に喜びを与えるのかを常に探し回りました。情報を手に入れるために、自ら街や村を歩き回り、「土地を買ってほしい」と頼まれれば、ひょいと買ってしまう。気がつけば、愛知県中に古川の土地がある・・・こうした基盤が、後の第二次世界大戦を乗り越えさせ、ミリオン座をはじめとしたレジャーランドの成功へと導きました。窮地をチャンスに替える迅速な判断力と先見の明、理屈抜きの天才が伺えます。

5月11日(木)
為三郎は、二十歳の時に結婚しています。同じ一宮の出身で、当時16才だった伊藤家の「しま」。
商人の妻として耐えることも多かったしまですが、為三郎が度肝を抜かれたエピソードがあります。

昭和37年・1962年。名古屋市の水道局長であった松見三郎が、「名古屋大学に図書館を寄付してもらえないか」と為三郎に申し込んできました。建設には2億円かかるといいます。当時事業の拡大で多額の出費を重ねている為三郎は、「全額は出せない。1億なら出そう。」と答えます。しかし、残りを集める算段がまったくないのですから、1億とはいえ半分ではらちがあかない。肩を落として帰る松見。

一部始終を見ていたしまがおもむろに口を開きました。
「残りの1億円、私が出しましょう。」
結婚以来自分の意志を主張することなど一度もなかった妻が初めて夫に見せる、頑とした態度でした。
「大学の図書館といえば、あすの日本を背負う若い人たちが勉強するところ。そんな人たちを育てるのに役立つなら、私の財産など惜しくはありません。」と自分の預金通帳と株券を持ち出します。それは、為三郎から渡されたお金をしっかりと蓄え、株券や土地に投資して増やした、長年のたまものでした。
妻の、いつになくまなじりを決した様子に圧倒された為三郎は、思わず「よし、わかった。これは元へ戻しておきなさい。わしは土地を売ってでも2億つくって名大に渡そう。」と答えたといいます。

パチンコが楽しみだったという古川しま。買った玉をお客にさりげなく振る舞って歩き、自分はあまり勝つこともなくゆったりと打つのが好きだったといいます。
波乱の時期を共に乗り越え、為三郎にとってなくてはならない伴侶だった彼女は、しかし、翌年の昭和38年に先立ちます。
昭和39年・1964年10月、名古屋大学の図書館には、古川為三郎・しま夫妻の名で寄贈された記念プレートが残されました。

5月12日(金)
古川為三郎がその生涯において、どうしてもやり遂げることのできなかったことがあります。
1956年・昭和31年、為三郎66才。愛知郡日進町の愛知池周辺に、2万坪ほどの遊休地があり、民間に払い下げとなる計画がもちあがりました。それは、愛知用水建設のために公団が買い上げ、後に不要となった土地でした。為三郎は、その利用法について相談を持ちかけられます。
そして、彼の心に映し出される、ひとつの美しいビジョン。
燦然と輝く金閣寺。愛知池のふちに、金閣寺そのものを建てよう。
為三郎はその一念にかられました。
金閣寺の模写設計、木曽ひのきの買い付け、さらに3人の宮大工も決定、しかし建築計画の途中で払い下げそのものが変更になり、とん挫。
その後1968年・昭和43年、猿投山で計画再燃、しかし実らず、さらに3年後熱海の伊豆山で3度も計画したものの、またもや空中分解。
ついにその生涯で果たすことはかなわず、幻の金閣寺となりました。

それにしても為三郎をここまで執着させたものは何だったのか。
為三郎は、大変信仰に篤い人でした。生涯において、死の淵からの奇跡的な生還を3度も体験していると告白しており、ひとえに信仰によるものとしています。金閣寺建立も、それは決して富豪として生きた証のためではなく、実はその中に観音像を納めるという信仰ゆえのインスピレーションだったと言われています。
泣く子も黙る、と言われ、ほんものとにせもの、その真贋を見抜く容赦ない見識と気迫を備えていたふるかわ古川為三郎。その莫大なコレクションの中で、とりわけ愛したものは、美人と萩を描いた上村松園の「初秋」などの美人画や、前田青邨の「薔薇」などのはんなりとした花鳥画。優しく、穏やかな作品が多かったと言われています。




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