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パパおめでと!

子連れナイスガイ!木下雄介投手。

祝!支配下契約!!


『育成の3ケタの背番号が、(支配下契約の)2ケタになる日は近いでしょう。』と、かねてから語っていた森繁和監督。

本日さきほど、一軍の試合に出場できる支配下契約を勝ち取りました。

先日のイッポウでお伝えしたとおり、大阪出身の木下投手は、甲子園を目指し、高校時代を徳島で過ごします。

生光学園三年生、最後の夏。徳島大会決勝戦、徳島商戦。延長13回、甲子園はすぐそこという所まで来たにも関わらず、先発だった彼は、ベンチで、敗戦を見届けました。

しかし、半年後、速球を誇るエースとしての活躍から、駒澤大学野球部へ。そこは、生光学園のの監督さんや関係者など多くの人たちの母校。そのルートは、たいへん有難く、必然であったそうです。

プロへの夢を抱き始め、まずは、神宮球場での活躍が期待された矢先、肘の痛みに苦しめられます。肘が気になって、スピードどころか、ピッチングもままならない日々。 結局、野球部のグラウンドから足が遠のくことは、彼にとって大学を辞めることとイコール。

大阪へ帰郷しました。

野球からは離れたものの、体を動かすことは大好きだった彼は、地元のスポーツジムのインストラクターのアルバイトを始めます。そこで契約社員だった年上の彼女、現在の奥さまと出逢います。

やがて二人の交際は深まる一方、彼は、アルバイトからサラリーマン生活に変わっていたある日、軟式の草野球チームから、『強豪チームと試合をするので助けてくれないか!』と、助っ人のお誘いがありました。

その草野球のマウンドで豪速球を連発。周りの度肝を抜き、騒ぐどころか、皆が言葉を失う圧巻のピッチング。いつの間にか右肘の痛みも消えていました。

その姿を見守った奥さまは、『もう一度、野球をやってみたら。サラリーマンをしてるあなたの顔は辛そうよ。。』と言葉を掛けたそうです。

といっても、ツテも何もない彼は、手元のスマホでFacebookを見ていて、高校時代同じ四国選抜チームだった仲間が四国アイランドリーグで活躍する姿を見つけたことを思い出し、友達申請。そこからリーグの選手募集を知り、正規プレーヤーではない、練習生という立場の、さらにその練習候補生として参加します。

しかし、練習生候補投手の四国での初登板の最速は、『128キロ』。。 そこから、木下投手はあらゆるトレーニングで這い上がります。練習生候補から練習生へ、そして、アイランドリーグの公式戦マウンドへ。

加入2年目の夏、ドラフト会議を控えNPB球団のスカウト陣が、自軍徳島のエースを視察するためバックネット裏に。 なんとその試合の序盤、先発したエース格が、いきなり死球を与え、危険球退場。急きょ、マウンドには木下投手が上がります。

『自分をアピールするにはスピード表示しかない』と成り上がってきた彼は、いきなり150キロを連発。

草野球のマウンドから3年。その秋、中日ドラゴンズから育成ドラフト1位の指名を受けました。

しかし、憧れのNPBからの指名とはいえ、その晩、奥さまとそのご両親への報告にためらったそうです。 『育成契約の数百万円で、妻子を養っていけるのか。義理の両親をどう安心させたらいいのか。』 どんな表情で玄関の扉を開けていいのやらと迷った矢先、話し掛けるより先に、家族皆からの『おめでとう!頑張ってね。』の笑顔、笑顔。

その祝福に、迷いが吹っ切れた木下投手は、1年間は勝負を掛けるべく、妻子と離れて寮での野球漬けを即決。一年目の昨季、ファームで22試合登板、MAX151キロを連発し、秋のフェニックスリーグでも、リリーフの大切な役割を任されました。

そして、支配下契約目前とされ、彼は強く語りました。

 『沖縄キャンプからずっと一軍にいる以上、支配下契約がゴールではなく、その先の肝心なシーズンでの活躍をしないといけません。

この前のナゴヤドーム、松坂さんが投げた試合の後を任された時、ファンの歓声が凄すぎました。ずっと、あの場所で投げ続けたい。先発もしたいですし、とにかく試合のラストにマウンドに立っていたい。サファテやメジャーの上原さんのようなゲームセットの瞬間の姿に憧れます。』

最も大切な奥さま、草野球のマウンド、Facebook、四国アイランドリーグ、ドラフトの夜。。そして、支配下契約という節目が、またひとつ、彼の人生の出逢いと転機に加わりました。

さあ、まもなく開幕! 木下雄介投手の速球とフォーク、ラジオとテレビで、バンバン実況させてもらいます!

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